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シン・現代詩レッスン103
黒田三郎「誕生日」
『現代詩101』からもう一度黒田三郎を見直してみる。唱和の酔っぱらい詩人とレッテルを張ってしまったが、ちょっと違う見方を見てみることに。酔っぱらいであることは変わりないのだが。
五十歳の誕生日を
きっくり腰で寝て暮らした
外ではブルードーザの音が響き
遠くて子どもの声がする
時々犬が吠える
遠い世界
五十歳という年齢がわかるのならまだましだ。わたしは年齢もあやふやになってきている。だいたいはわかるのだが正確のところはよくわからないのだった。年齢を意識するのは誕生日だと思うのだが、そうした誕生日の避けてきた。というか誰も祝う人がもういないのだった。
たぶん、わたしも五十歳ぐらいのときにぎっくり腰になって、二回ほど入院した。二回目は骨を削る手術もしたのだ。だが思っていたより大した手術ではなく、父親の場合6時間を超える大手術だったので、それに比べると今は内視鏡でちょちょっとやるような手術だったような気がする。退院も早く、そのあとのリハビリの方がきつかった。あれ、杖を借りたのは腰の手術のときだっけ。もう記憶も飛んでしまった。その後に肺の手術も受けているから。
いたって丈夫な身体だと思うのだが、腰は遺伝的なものなのかもしれない。腰痛がない人生はそれだけで幸福期だと思わなければなるまい。
外ではブルドーザーの音まで共通している。今、道路を隔て造成をやっているのだった。家でも立つのだろか。子どもの声はたまにこのアパートの住人の子供が部屋の前を通ったりして、けっこう経験済みだった。遠い世界というのも。
この詩はシンメトリーになっているから、かなり意識的に書かれていると思う。なかなかこういうシンメトリーにするのは難しいと思うのだ。
それがどんなにみじめで
それがどんなに心貧しくても
それは僕の一生なのだ
それ意外に僕の一生はない
だがいまは
そこにそれがあるだけでこころが重い
定年後、もう働くのが嫌になったのは腰痛とかのせいもあるかもしれない。肺の病気も。癌ではないが腫瘍もあるのだ(良性だと言ったけど)。もう肺はボロボロでいつパンクしてもおかしくないという。だから呼吸器系が弱いのだ。そういうことを意識してしまうと残り少ない人生は好き勝手にやりたいと思ってしまう。何時死ぬかわからないと覚悟している。こころの病は、気分的なものだから病ではなく才能だと思えば怖くない。むしろ病院に入院することの方が怖い。
こころが
ちりぢりにいらばり
世界の騒音のなかに
まぎれこんでいったら
そうしたら
どんなにせいせいすることか
それが嫌で孤独でいるわけだが。解説に大岡信が
孤独は生活によって強いられたものであるにとどまらず、進んで生活を、さらに孤独なものに強いることによって、孤独それ自身の自由を獲得する。これが黒田三郎の詩にひそんでいたディアレクティクであった
こういう言葉を読むとそれを信じてしまうから困りものだ。「ディアレクティク」は意味がわからんが、そういうことだ。
孤独と自由の問題なのだった。
武蔵野の雑木林を歩き疲れて
一本の酒と一碗のそばに
われを忘れる
そんな具合だったら
どんなにいいか
きっくり腰でねている誕生日
酒を飲まなければいい詩人なのだけど。依存症っていうのがあるからな。例えばわたしは映画とか読書とか。詩を書いたりするのも依存症かもしれない。しかし、それは孤独にあまりにも耐えられないからであった。
孤独
六十歳の誕生日から
もうどうにでもなれの人生
それまでまともに生きてまとも
すぎると彼等に言われた
そんな友達も
今はいない
アル中の友達も多かった
だからアル中がきらいなのだ
彼等に介抱されたこともあったのに
依存症のやつはこっちの事情を
考えもしないで電話する
そのたびに裏切る
気持ちだ
まともすぎるから
狂気性に憧れてそれを手に
したら今度は孤独が淋しくて
どうしようもないな
お前ってやつは