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4Tの影にいる女性俳人のことなど

『NHK俳句 女性俳句の光と影―明治から平成まで』宇多喜代子

忘れてはならない女性俳句の歴史がある。平成の俳句界に受け継がれた力の源はどこにあるのか。
目次
第1章 女性俳句とその時代(杉田久女の登場と終焉;男社会と女性俳句―「職業婦人」と「台所俳句」;こころの風景を詠んだ女性俳人;新興俳句と戦時下の俳句 ほか)
第2章 忘れえぬ女性俳句・女性俳人―味わってほしい出会いのよろこび(竹下しづの女の「苺ジャム」;及川貞の八月;中尾寿美子・清水径子の変身願望;桂信子の『月光抄』 ほか)

杉田久女から著者が印象的な女性俳人についてのべてゆく。女性俳人というと4Tというように、例えば中村汀女、星野立子、橋本多佳子、三橋鷹女だけの名前が知れ渡り、その影にかくれてしまう女性俳人は多くいる。

そんな中でまず女性俳人の輩出するきっかけとなった「台所俳句」という言葉から紐解いていく。それ以前に女性俳人がなかったわけではなく、代表的なところでは杉田久女が頭角を現していた。当時の女性の気持ちを詠んでいた。

足袋つぐやノラともならず教師妻  杉田久女

ノラはイプセン『人形の家』の主人公ノラである。当時の人気のあった小説の主人公を象徴させて、ノラに近づきたく「ホトトギス」の句会に出たりして、俳句で有名になっていく。その彼女が投句していたのが「ホトトギス」の「台所雑詠」欄で、かなりそういう歌も作っていた。

虚子は、「ホトトギス」の主宰者として、俳句を広げるために女性読者の獲得を狙ったものと思われる。虚子の思惑通りに女性投稿欄は盛況であり、中には男性が女性の名前を騙り投稿していた者もいたようである。女性証明書を出せということもあったとか。

そんな中で「台所雑詠」の中の投稿者として久女は、20年間も「ホトトギス」に関わっていくのだった。しかしもともと派手好きな久女は虚子に「清艶高華」と絶賛されたかと思ったら突然「ホトトギス」を除籍されてしまう。その後に4Tの中の中村汀女が台頭してくる。彼女は久女とは違って表舞台に出るタイプではなく、ライバルと見なされている星野立子(虚子の娘)とも仲がよくナンバー2の座に甘んじられていたのかもしれない。そんな「主婦俳句」というような「台所俳句」は当時の一般性を示していたのだ。

その対極として職業婦人として、もう一人近代女性俳人の草分け的存在の竹下しづの女がいる。

短夜や乳ぜり泣く児を須可捨焉乎(すてつちまおか)

この句があまりにも有名だが、戦後は一人の母親として、面倒見の良い女教師という一面が強かった。

母の名を保護者に負ひて卒業す
たゞならぬ世に待たれて居て卒業す

「たゞならぬ世」は敗戦の前年に息子を戦争に送り出して病死、自身も戦後の混乱期に心労の末になくなったという。

そんな女性俳人を追いながら、宇多喜代子が新興俳句から出た人なので、実際に新興俳句には女性俳人は少なく、例えば中村汀女の俳句の中にも見るべきものを見出していくのだ。それは「台所」が当時は女性が持てる唯一の場所であり、その台所からの観察によって俳句を詠むことは社会に繋がることでもあるからである。例えば戦時中の食料難を詠んだ句は少ないが、当時もっと積極的に台所俳句を詠んでいたのが中村汀女であり、彼女の居場所から社会を照らす俳句は、例えば今の電化製品で覆われた生活との違いや心情を映し出しているのだという。

それでも宇多喜代子がここに上げる俳人は「アララギ」の光よりも影になっていく女性俳人についての章が感動を誘う。そんな中でやはり一番は鈴木しづ子に触れた章ではなかろうか。戦後の苦難をアメリカ兵との恋の間で二冊の句集を残して消息不明の足跡を追うエッセイは感動する。彼女も投稿俳句ということを通して戦後を生きていた俳人だったのである。

その一方で鈴木真砂女のように90歳まで活躍する女性俳人もいる。彼女の杉田久女の俳句からの連想句。

冬菊やノラにならひてすてし家

その後に飯島晴子についても書いていた。彼女は女性の「老い」を詠み続けていたのだが、最後は自死だと坪内稔典の本にあった。

関連書籍『人束の手紙から』宇多喜代子


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