沈黙する他者に思いを寄せること
『彼女の「正しい」名前とは何か ―第三世界フェミニズムの思想―』岡真理
フェミニズムとサイードの「文化帝国主義」という問題で論文みたいな理論書。難しい。十分理解できたはわからんけど、フェミニズムが欧米中心から起きていた問題であり辺境の国の文化伝統の中で生きてきた者たちが欧米の理論で極端に否定に走る(それも自国からの批評ならいいのだが、欧米のなんでも白黒付けるやり方がその土地の文化に合ってない)。例えばハリウッド映画なんかで第三世界としてアフリカの悪を暴くというような映画で、第三世界と見方が中心としての第一世界という正義をかざすことになるという。
アリス・ウォーカー(『カラー・パープル』という黒人差別を扱った映画があるが)がアフリカの女性器削除の風習について、野蛮でいますぐ止めさせるべきだというのを、例えばユダヤ教徒だったら男性器の割礼があるわけだし、欧米の美容整形的な削除は手術と言われるてそちらは非難されない。アフリカの文化度の野蛮さを言い立てるが実際にはレイプや暴力が多いのはアメリカなのに、とりたて第三世界で倫理(道徳)を問う。
それはそこに住んでいる者は文化として、例えば日本にも家父長制があるがすぐに廃止しろということは出来ないわけで、まして欧米から倫理に反するからと言われても日本の家族制度が簡単に転換できるものではない。それは日本の中からそういう問題として起きるべきであり、外部からのお節介は迷惑だということだろうか?
フェミニズムが欧米中心の思想であり、グローバルなフェミニズムが地域性に合わないこともあり、また欧米と文化も違う国が同じように問題解決が出来るわけがない。その問題が複雑になってくるのは、日本の従軍慰安婦の問題で、それをグローバルなフェミニズムで解決できる問題でもなく、国家間の民族問題も絡んでくるので、難しい問題であるという。例えば日本のフェミニズムを主張する女性たちも帝国主義的な文化のなかで安泰として批判するだけで自身の問題についてはなおざりにしているという。
そこで上野千鶴子なんかの岡真理の反論もあるので、これはなかなか困難な問題であるのだと思う。むしろ、論理的に解決させるよりは感情的に共感を得るように持って行った方がいいだろうと思う。論理的に社会学という手法の中ですでにフェミニズムの主張の中で論理を組み立ていると足を救われそうなのだ。
例えば岡真理が実際にパレスチナに行った経験から、パレスチナの女性がパレスチナと地域を愛していないわけではなく、自然や文化を通して愛国心を持つ。それをイスラエルという帝国主義がパレスチナという文化を消滅させようとする。そこに住む人の叫びはなかなか我々には届かない。沈黙させられている。これはローティの欧米の哲学の言語は辺境の少数民族の言葉を抹殺していくということに繋がっているような気がする。
そこで映画や文学で説明するのだが、クッツェー『敵あるいはフォー』でロビンソン・クルーソー的な情況で主人と奴隷が無人島に生存して、そこに語り手の女性がやってきて、彼らの物語を記述しようとするのだが、奴隷は口が聞けない状態にされ、彼らの物語を外部から語ろうとすれば奴隷の沈黙は無視することになるのだ、そこに支配者に都合のいい物語が生まれてしまう。
ケースバイケースだと思うのだがローティの言うように対話していくしかないのだろうけど、最悪な方に付くというか、弱者の方に付かないと最悪なことが起きるということなのだろう。パレスチナは論理よりも感情で判断しないと弱者に対するジェノサイドは止まらない。
彼女の正しい名前と言えば、在日朝鮮人の作家李良枝は日本名で田中淑枝と呼ばれてしまうが朝鮮語(韓国語)ではイ・ヤンジと呼ぶ。その名前は日本では奪われており朝鮮に行くと田中淑枝という名前では呼ばれない。そういう彼女の正しい名前について、彼女との親密さとか了解のもとで呼ぶしかないのだが、一番は彼女自身に名前を聞くこと。それをしないで勝手なレッテル貼り(在日と呼ぶこと)することが彼女を苦しめるのだ。
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