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イカロスは空っ風あい墜落す

生贄のような木のオブジェ。木で鳥を表しているのか?昨日、『動物界』を観たあとだけにイカロスの墜落の鳥男を思い出してしまう。

ハーバート・ジェームズ・ドレイパー, Public domain, via Wikimedia Commons

今日の一句。

イカロスは空っ風とあい墜落す 宿仮

空っ風を愛するはずが相まみれてということなのだが。

映画の話に戻ると動物の病原菌に感染して、動物に変身してしまうというパンデミック映画。何の動物になるのか、様々なパターンがあり、主人公の高校生は狼だった。他にトカゲの子供とかアザラシおばさんとか。アザラシは嫌だな。ビジュアル的には鳥男がいいのだが、顔が変形してしまっている。

映画のストーリーは妻が感染して猿人間みたいになってしまうのだが、夫は隔離することには反対で妻と一緒に住みたいと思っていた。けれども感染した人間の知能が動物の本能のように変化していくので共存はなかなか難しい。そこで人間は自身を守るために、動物人間を捕獲して隔離するのだが、息子が次第に感染して父は自由に生かしたと思って行動する。映画としてはパンデミック下の家族愛を描いたものなのだが、ハンセン病の隔離政策も前例があるだけに、そんな感じの映画。難民と地域住民の共存の問題も含んでいるのかもしれない。

ただその中で鳥男は空を飛ぶ自由を得て、そこのストーリーは面白かった。結局、森の仲間を見捨てられずに撃たれてしまうのだが、イカロスの墜落みたいでなんとも哀れだったのだ。

この映画は過去のアニメ作品やホラー映画の影響を受けているということだが「聖アントニウスの誘惑」のモチーフにあるような。

「聖アントニウス」はコレラや性病と言った悪魔を象徴とするものと戦ってきた聖職者だが、年には勝てない。無惨にその悪魔たちの餌食になるのだった。なんでそういう絵が教会や病院に置かれたりするのだろうか?不思議に思うのだが老齢だけはどうにもならないという諦念なのか?

昨夜部屋の中で転んで手を付いたときに角っこに当たって手を切ってしまった。そういうことなんだろうなと思うのであるが、『漢詩百首」に死と対峙して悲惨な人生をくぐり抜けてないと詩は書けないという言葉があって励ませるのだった。唐詩がいいのは唐の安定期でもあったのだが、そのあとの安史の乱の混乱があったからだと。乱世には詩人が必要なのだ。

今日の一首。

悪魔と出会う聖者は愛対し墜ち血塗られて墜ち 墜ちて復活 やどかり


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