短歌詠みネットの歌会染めずに「基本的歌権」とは何ぞ
『短歌 2022年4月号』(雑誌)
現代短歌の最近を知りたく図書館で借りた。こういう専門雑誌は歌人か歌人を目指す人しか買わないだろう。横浜中央図書館には短歌雑誌を購読もしてなかった。予算がもうそういうのは控えるように時代なのか?
それでもネットでは短歌人口が多いという。このギャップはなんなんでしょう。まだ短歌の方が俳句よりも保守的じゃないと思うのですがこういう雑誌を読むと保守的な感じをしてしまいます。
突然、「うたの日」のお題「ギャップ」を思い出した
「【特別企画】よし、春から歌人になろう」の特集があったから借りたのですが、大学生(25歳以下)が対象のようです。大学の短歌同好会の紹介があったのですが、そこに入れるわけでもなく、同好会がどういうものか知るには面白いのですけど、私は部外者でした。
早稲田短歌同好会は顧問が堀江敏幸なんですね。部員も65人で伝統ある同好会のようです。
そうかと思うと國學院大學北海道短期大学部旬歌会は、会員が4人なのに少数先鋭という感じで全国学生チャンピオンを生み出している短歌会でした。他の人もこの雑誌に掲載されるなどどういう仕組になっているのだろう。國學院大學短歌研究会よりも実力がある感じなのです。
短歌を読んで、どこの同好会に入りたいかなと考えると圧倒的に九大短歌会ですね。もう青春恋愛短歌という感じです。
東京大学Q短歌会は顧問が歌人の坂井修一で掲載首も難しいです。
対談は初歌集同士の対談。こういう場慣れさせるためのものかな。新人では先輩の歌にあれこれは言えないだろうな。お互いなんとなく共感するというような対談。新人で辛い批評が出たらスランプになるだろうなと。「うたの日」の「どんまい!」でも凹むんだから。プロは大変。
木村草弥「粟神社」
京都にある神社。「認知症テスト」パターンBは名詞を並べただけの短歌。定形でもない。でもこれ12首の連歌で、散文的ではあるのだが、最後の一首にたどり着く様がいいのかもしれない。風狂短歌?
「あたふたと」
武田弘之。昭和7年生まれ。うちの親世代だ。「多磨」残党は北原白秋が創刊した歌誌で創刊時に宮柊二が参加していた。短歌結社。日本正統の歌は伝統短歌なのか?その生き残りが作者なのだろう。
結句の「ならめご」がわからない。「ならめ」が「ならむ」の連用形で「ご(期)」の意味か?「用事であろう時」。
読める短歌がないな、と思ったら矢部雅之の短歌はわらわせてくれる。(笑)とか書いてしまう大胆さ。最後は哀愁短歌で締める。
でも旧字体だった。このへんにも保守的な部分が出ているのだろうか?旧仮名遣いなのか?やっぱわたしは使えない。
斎藤斎藤。この人がNHK短歌の講師として出てきたときは驚いたが短歌はそれほど奇異でもない。
妙に切ない短歌だ。現代人と感じるのは詠まない()使いか?
「スピードでうまい」という言い方は出来ない。コンビニのおやつに対する小さな共感(わかる人にはわかるという)。
わたしの標語にしたいような短歌だ。でも、ちっとも泥のような感じはしないわな。「泥のように」という意識なのかな?泥美白効果とかするのか。
作品7首の人は作品12の人より若い人のようだ。なんかそういう差があるのが嫌だった。でもあまり共感は出来ない短歌ばかりなのだ。この感じが「うたの日」なんだよな。
松岡達宜という人は1948年生まれだからそれほど新しい人でもなかった。短歌もジャニスとか歌っている。総題が「なかじまみゆきへ」だった。
前半はコピー的な言葉で後半の「あぶな坂途上にて」が自身のことか?「あぶな坂」が流行りのアイドルグループをもじった感じで、もうそういう年齢だという哀愁短歌?
若い人でもなかったな。クリシュナ智子という歌人は三十過ぎた娘がいるのだから。でもこの短歌は凄い。
「三十をすぎ」て出産してないという高齢化。その費用を会社持ちとする社会。変わったのか?この人アメリカ在住だった。
現代短歌の動向を知りたく初めて短歌雑誌を読んだのだ。一通り読んで「読者の声」に蒼然としたのは、ほとんどが60過ぎの者たちばかり。60代ならまだ若い方で88歳のお婆さんが学ぶべきことがあり何度も読み返したと。もうその年令なら自由に短歌を作ってもいいんじゃないのか。プロ作家の1930年生まれの歌人は名詞を連ねて「認知症テスト」という題で出していた。そのぐらい自由なのだ。一人だけ19歳という孫世代の人の感想は「ファンタジー」というものだった。
そんな中で興味深い記事は【歌壇時評】の「世代間の分断とは何か」で穂村弘の批評が「そういう批評は今は無しになっている」と若手から言われる。上から目線というものか?
「基本的歌権」というどの短歌にもリスペクトしなければならないという。そんな中でこのような短歌雑誌やそれまであった結社などは高齢化が進み、今短歌はネット社会の交流の場になっている。そこでは否定してはならないという。ただその中に暗黙の状態があるのだ。それは幸福さを感じさせなければならない配慮みたいなもの。ネガティブな短歌は受け入れられない。何事もポジティブな幸福短歌であるというような。一見自由なようだが、何か見えない枷があるように感じる。それは現実社会を肯定していくこと。自虐でも最後は受け入れる。
ただその「基本的歌権」というものがその内輪の世界を崩そうとするものは排除するという構造。それは日本の排除性と繋がっているような気がした。
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