積読の山に埋もれる時間かな
日記を最初に書こう。昨日も一日だらだら過ごしていたが、こんな毎日だった。風呂ラジオ「高橋源一郎の飛ぶ教室」で『時間のかかる読書』をやっていて、それを少し読んだ。永遠に終わらない読書の話で、それは書く人の思考は読む人が分からないということにあるわけで、この本は解釈の本であるわけなのだが、どこまでも深読みしようと思えば出来るわけだった。結局それは麻薬(依存を引き起こすもの)みたいなものだからどこまでも満足出来ないと言えば出来ないわけだった。完全にその小説家の考えがわかるわけではないので、推測にしかすぎないのだけど、人の思考は中心に向かってまっすぐ行くものでもない。だから脇道にそれていろいろ関係づけたりするのだった。それはまず自分の生活が中心にあり、その自分に沿って思考せざる得ないからなのだ。自己中心的に思考するしかないのだった。そこでそれを整理しようと書く人になるわけだった。ただちっとも整理出来てないのは、この日記と同じだった。日記と言えば読んだ日の日付とその時のニュースが記録されてそっちに興味を持った。2007年四月長崎市長射殺事件とか時が過ぎてしまうとどうでもよくなってしまう(どうでもよくないのだが忘れていく)麻原彰晃死刑判決とか、そういう重要な事件があるかと思えば川内康範と森進一「おふくろさん」問題とかの芸能スキャンダルがある。その中で横光利一『機械』を読んでいくのである。どうでもいいと言えばどうでもいい話のだが、何故そんなに『時間のかかる読書』をしなければならないのかということなのだ。
一つには読書メーターに記録するためなのだが、それは承認欲求なのだろか?調べてみたらすでに絶版本だった。本の価値ってそんなもんなんだよな。名作と言われるのはノーベル文学賞とかせいぜい芥川賞とか評論だったらなんだろう。すでに宮沢章夫も故人になっていたので忘却されるだけなのかもしれない。それでも「高橋源一郎の飛ぶ教室」で紹介されて、かつて途中まで読んでいたのに終わらない読書の続きをと思って積読山からサルベージしたのである。「サルベージ」は沈没船の引きあげだかたこの場合は違うのか?でも読書の海みたいなもんだからな。そこで一句である。
意味不明だな。
こんなもんか。そして読書に飽きるとAmazonで映画『トーベ』をみたり、ネットフリックスでマイク・タイソンが57歳でボクシングをして負けた試合を見るのだった。そういうのに人生の意味は見いだせないが暇つぶしなんだろうと思う。今日面白かった(昨日からか)ネットフリックスのアニメ『アーケイン』が面白かった。アメリカ製のアニメでスチームパンクというような。上層世界と下層世界の戦いで、産業資本主義的物語なのか。原子力のような鉱石が未来を創るという中でそれを悪用するものがいたり、戦争孤児の姉妹が敵味方となって戦うストーリーとか面白かった。こういうアニメは見始めると一気に見てしまうのが無職の特権なのか辛いところである。
今日は図書館に本を返却して予約本を取りに行かなくては。今日の一首。
詩人の谷川俊太郎さんが亡くなったという。今日一番のニュースかな。ちょっと短歌を変えた。