【東京地下迷宮街】赤子を喰らう蛇【短編小説】
東京の地下には、《何か》がいる――。
女は、泣いている赤子を抱きながら走っていた。
雑踏から逃げるように、人の視線から逃れるように。
靴はとうに脱げ、アスファルトで傷ついた靴下はボロボロだった。
「ごめんね、ごめんね……」
女はひたすら、泣いている赤子に謝っていた。
もう、我が子に食べさせてやることは出来ない。貯金も底をついてしまったし、頼れる両親ももういない。ようやくのことで、異常に支配的な夫から逃れることが出来たのに。
都内を彷徨い歩いた結果、女はいつの間にか、地下へと繋がる坂道を下りていた。
くねくねとうねって、まるで蛇のような道だった。
両脇には太い柱が立ち並んでおり、柱が作り出す影が人間のように見えて、怯えながら先へと進んだ。
ここは何処なのか分からない。
でも、自分と子供以外は誰もいない。自分達を責めるような視線から逃れることが出来るだけで、心が安らいだ。
子どもが泣くと、煩いと言わんばかりに睨まれる。
女の夫ですら、さっさと泣き止ませろと怒鳴り、子供を殴ろうとしていた。女がそれを止めると、彼は女を何度も殴った。そのくせ、子供は自分のものだと主張するのだ。
冗談ではない。泣かない子供が欲しいのならば、人形遊びでもしているといい。
社会だって、少子化と叫ばれて子供を欲しているにもかかわらず、母子に対して不寛容だ。
ベビーカーを電車の中に持ち込めば、露骨に迷惑そうにする人間が一定数いる。では、母親が常に抱きかかえるか背負っていろというのだろうか。何キログラムもあり、時に暴れる赤ん坊を、産後の身体で支えるのは容易なことではない。
望まれていたから産んだというのに、なぜ、こうも生き辛くなるのだろうか。
赤子の泣き声が、一層、大声になった。
「ああ、ごめんね。お前が悪いんじゃないから……」
そう、産まれたこの子は何の罪もない。すべては、こんな社会で産んでしまった自分の責任だ。
女はそう思いながら、子供をあやした。
子供は、責任を持って育てたかった。こんな社会に負けない子になって欲しかった。
だけど、それも出来なくなってしまった。
「それにしても、ずいぶんと長い道だね……」
一体、この道は何処まで続くのか。
女がそう思い始めた時、唐突に、目の前に穴が現れた。
それは、人間なんてすっぽり入ってしまうくらい巨大な穴だった。
穴の壁に沿って、螺旋状に下り坂が続いている。まるで、巨大なネジ穴だ。
穴の底は、闇に消えて見えなかった。
――ここから飛び降りよう。
女の脳裏に、そんな決心が閃いた。そうすれば、自分も子供も、これ以上苦しまなくて済む。
「もう、飢えることはないからね」
女は泣いている赤子を抱きながら、穴に目掛けて飛び降りようとする。
だが、「待ちな」と背後から声がした。
「誰……?」
足音なんて聞こえなかった。だが、声はすぐ後ろの、耳元でしたのだ。
女は恐ろしくなって、振り向けなかった。赤子だけが、ただひたすら喚くように泣いていた。
「どうして、深淵に身を投げようとするんだい?」
耳元を、生暖かい吐息が撫でる。
声は、男のようにも女のようにも聞こえたし、やけにねっとりしているが、妙にかすれていた。
「私もこの子も……もう、生きていけないから」
女は辛うじて、そう答えた。すると、すぐそばで深いため息が聞こえた。
「深淵に身を投げたら、回収出来なくなってしまう。それは勿体ない」
「勿体ない……?」
「それで、一つどうだい。どうせ死ぬなら、私の要求を呑んでくれないか?」
「要求って……」
女は振り向かないまま、震える声で問う。
「その赤子を置いて行って欲しいのさ。あんたは飛び降りていい。大人は肉が固いから、食べ辛いんだよ」
「食べ辛い……?」
一瞬、聞き間違えかと思った。
だが、すぐそばで頷く気配がした。
「あなた、私の子供を食べるつもり?」
「ああ。赤子の肉なんて久しぶりだからね。じっくりと味わわせて貰うよ。あんたは、望み通り死ねるし、赤子も死ねる。そして、私は腹が満たされる。みんなが幸せになるじゃないか」
「みんなが、幸せ……」
声は妙に明るく、自分の提案が素晴らしいことだと信じて疑っていない様子だった。
女は、反射的に赤子をぎゅっと抱きしめる。
気付いた時には、「だめ……!」と叫んでいた。
「どうしてだい? あんたは赤子と死のうとしていたんだろう?」
声は、明らかに不機嫌になっていた。耳元では、獣の唸り声のような音が聞こえていた。
女は震え上がりそうになりながらも、「駄目!」と更に語気を強くした。
「そのまま、二人で飛び降りる気かい?」
声は問う。
どうなんだろう、と女は疑問に思った。
穴を覗き込むと、闇がぽっかりと口を開けていた。女は、反射的に首を横に振った。
「飛び降りない……です」
「それじゃあ、あんたの苦しみも、その子の苦しみも長く続くよ」
「それでも、生きている限りは……どうにかなります」
女の口から零れ出たのは、そんな言葉だった。すると、声は「はぁ」と露骨に溜息を吐いた。
「そうかい。それじゃあ、好きにしな。襲って食うのは私の主義に反する」
ふっと背後の気配が消えた。
女は赤子を抱き直すと、踵を返して坂道を駆け上がった。
入れ違いになるように、影が穴の底へと向かって行った。螺旋の坂道を下るその影は、ぬらりとした大蛇のようだった。しかし、その先端では乱れ髪が揺れ、ついているのは人の顔のようですらあった。
女はきゅっと唇を噛み締めて悲鳴を押し殺すと、振り返ることなく地上を目指す。
「生きている限りは、どうにか出来る……!」
腕の中では赤子が泣いていた。
だが、赤子は温かく、泣き声は生命力に満ちていたのであった。
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