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夏休みと広島という故郷

私の考え方には毎年春休みと夏休みの帰省で遊びに行っていた母方の祖父母の家、そして私の叔父の部屋が、強く影響してきたように思う。

4畳半の和室が2つ連なった手前には天井いっぱいの本棚、そこにはなにか分からない難しいタイトルの本が並んでいる。本棚と同じようにDIYで作られた机はニスで黒く光っていて、ワープロはいつ見ても本来の目的ではなく置物として使われているように感じられた。
奥の部屋には叔父が生活で使うこたつと簡単なマットレスが置いてあり、こたつの上には灰皿、長押の上にはタバコの空き箱とジッポーライターが並んでいた。
そして、どこの国のものなのか分からない怪しげな呪術用具のような置物や楽器。
広島電鉄の線路の音が遠くに聞こえる閑静な住宅地にある一軒家の2階は、いつも異世界に入り込んだ様な高揚感を私に与えてくれた。

当時40代の叔父がまっとうな生活をしていなかった事だけは断言できる。
東京の大学を中退した後、東京で華やかな生活を送った後独身のまま40手前で早々に退職して実家に戻り、代わりの仕事もせず、部屋を昼ごろに起きてきて自分で簡単な朝ごはんを作る。(たまに作ってくれる目玉焼きがやたらと美味しかった)その後はずっと部屋に閉じこもってタバコを吸いながら新聞のスクラップを作るか読書をするかして過ごし、晩御飯は祖父母や自分とタイミングをずらして一人で食べていた。
少し時代がずれていれば、子供部屋おじさんなんて名前が私の中で付けられて揶揄していたかもしれない。
しかしながら、私の中での叔父の存在感はとても大きかった。彼の禅問答のような問いかけや、学問を教える風を装って間違った知識を植え込む(叔父は嘘に自分が気付けるかどうか試して楽しんでいたフシがある。)お茶目さや、自由に暮らしあたかも俗世の欲や争いから開放されて思考に没頭するかのような振る舞いに憧れを抱いていたと言ってもいい。

小学校高学年になると『What's Michel ?』だの『クライング・フリーマン』だの、『宣戦布告』だの『フィジーの小人』だのを勧められて読んだ。
帰省の際は自分の家では嫌がられるだろう読書体験(はっきり言ってフィジーの小人を小学生に勧める奴は狂人か、控えめに言ってもかなり悪い大人だろう。)をしても、その好悪について咎められる事はなかった。
また、私の元には年に二度ほど段ボール箱に本が詰め込まれて送られて来ていたのだが、叔父は意図的に偏った本を選んでいたように思う。

被爆者でもある祖母は「私の命は1回ないなったようなもんなんよ」とよく言っていた通りの欲のない人ではあったけれど、学ぶ姿勢がある人だった。小さい頃から自分を登山や水泳、科学館や美術館(日展の時期になると「祖母の友達の作品があるから」という理由で行く事が多かった。私は価値はよく分かっていなかったのだが。)と色々な所へ連れて行って、経験を与えてくれた。
そしてその殆どが、祖母が60を超えてから始めた趣味であった。
その上で、被爆者として戦争の恐ろしさを話す時は、「元気でいてくれたらそれでええんよ」とよく私に話してくれた。「私が死んだら遺骨を海へ投げてほしい」という話もかなりの回数聞いた。

小学生になる頃から私はずっと母とは仲が悪く、母は(彼女の基準で)勉強をしていなくて機嫌が悪くなると自分のおもちゃであったり、雑誌であったりを破いたりした。家出も何回もしたし、低学年から中学年の時の学校の成績も、素行の悪さに相応しい悪さだった。
自分で子供を持つと、自分が小学生の時に1年のうち3ヶ月もの間、子供を自分の所から離れて暮らさせる所は、変わった家庭だったのかなと感じる。
ただ、(弟は自分の家に居たにも関わらず)それは自分の中では当たり前だったし、母は相性の悪い自分と離れることで余計な苛立ちを抱かずに済んでよかったのだろう。

時間は飛んで22歳の頃、私は大学生活を非常に不真面目に過ごしたもののなんとか卒業に向けて頑張り始めた。1年で60単位ぐらいを取ったその春に広島に帰り、祖父を看取った。
亡くなる直前まで、祖母はすっかり痩せて眠ることが多かった祖父の世話をして、私も体を起こしたりしてそれを手伝った。
祖母は、祖父が亡くなった後、祖父の事をわがままで、大変だったと話していたが、側から見て、夫の世話をする祖母に愛がなかったとは到底思えなかった。
ベッドに寝かされ、殆ど話せず体を拭かれ、死を待つ祖父と祖母が、何か神々しいものの様に感じられたのをよく覚えている。

ところで先日、叔父が脳梗塞で倒れた。幸い命に別状はなかったのだが、90歳を超えている祖母は入院や保険や諸々の煩雑な手続きに追われて……厳密には何をすれば良いのか分からず、母を頼った。
祖母は、歯もなくなり痩せた自分の息子の姿を見て泣いていた。

この世で美しく自由なものの一つの様に思えていた叔父の世界は、その実他人に依存し、壊れやすい箱庭の様なものだったのだと、今となっては思う。

私はどうやったら叔父の様に暮らせるのだろう?と叔父に問いかけた事もあった。
叔父は、知を追求する形をとっていながらも、叔父自身の様になって欲しいとは、一度も言わなかった。
叔父はこのままだと、祖母より先に死んでしまうのかもしれない。
そんな叔父を、母は「何にもなかった人だ」と言った。叔父はそう言う見られ方を許容していながらも、私に対しては(甥として、人として)在り方を考えてくれている様に思った。

私には、知の箱庭から外に出る必要があり、決して欲しくはなかった俗っぽいお金や仕事の話をすることが必要だった。
高校生の時、母からは、「叔父の様なニートになるよ」と脅される時もあった。
しかし、私は叔父の様に1人で黙々と思考の海へ溶け込んでみたいと思う事が頻繁にあり、その度に誰に読ませるでもない文章を書くことが増えた。

祖母が70歳、80歳と歳をとっていき、私が結婚する頃には、息子を残した後に息子が1人で生きることが出来るのだろうかと怯えていたのを見た。
それにも関わらず、彼女は前向きに生き続けている。もしかしたら彼女は家族の中で最後まで生き残るかもしれない。
母と父は、市内で地価が高騰した祖母たちの家をどうするのかを話し合っているそうだ。私にとっては間違いなくあの家だけが思い出深い故郷だが、このままだと手放してしまうのかもしれない。

祖母は90歳になっても大学の公開講義を受けに行き、スマホを買って話をする様になった。
90半ばになり耳が遠くなってしまい、なかなか話をするのが難しくなって来たが、私も祖母の様にありたいと、いつも心の底から思っていた。

今年も暑い夏が来ている。
子供の頃に祖父母や叔父に抱いた憧憬が、今も私の指を動かし、文章を紡ぐ。
少しでも、祖母や叔父に貰ったものが無駄じゃなかったと、誰かのためになるものだったと証明する為に。
いつか私も、誰かにあげられる様になる為に。

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