アセンブリ読後感メモ
アントニオ・ネグリ&マイケル・ハートの近刊である。と言っても2017年刊行された英語版Assemblyの翻訳が今年2月に岩波書店から出た。
同じ著者による「Empire(帝国)」(2000年)により、現代社会の最大の国際市場資本主義の問題分析も、痛烈であった。そして、その後の世界の展開を踏まえてどうしたらよいかを説いているように読んだのではあるが、感覚的に納得できても、どうすればよいかは自分で考えるということになりそうだ。訳者あとがきによると、「マルチチュード」(2004年)と「コモンウェルス」(2009年)で帝国三部作ということのようであるが、いずれにせよ、さらなる考察から生まれた「アセンブリ」である。四部16章からなる。
かねてより、わが国でも労働組合が力を失い、資本家はより力を蓄えてきたように見えるのであるが、それは経営者の取り組みが労働者の取り組みに勝っていたという現実でもある。しかし、社会が成り立つには生産があってのことで、そのためには個々の生産者が存在しなくてはならない。そして、その生産者ひとりひとりは、ネットワークを構成し、結果として生まれた生産物が富を生んでいる。その生産手段が現在多くは資本の手中にあるが、それを生産者の手に取り返すことだと言う。そのような生産者こそがマルチチュードであり、起業家なのだと。
「共(コモン)」という言葉が頻繁に登場する。生産手段としての機械であり、土地であったり、情報であったりする。すなわち資本による生産手段の私有を廃し、マルチチュードの共有にすることで生まれる新しい社会を、われわれは築かねばならない。
建築を消費財として扱うことになる建築基準法を廃し、建築の理念をしっかり謳う建築基本法を作る運動や、三陸の小さな漁村集落の震災復興まちづくりは、アセンブリで言っていることと整合するというように読むことで自分なりには満足するのであるが、とても詳細を読み切れていない思いもあり、今後の議論のためにも、メモとして残しておくこととする。
「序」においては、グローバルな資本主義経済がすでに破綻しているという分析のもと、権力を資本からマルチチュードに取り戻せと檄が飛ばされている。日本語版への序文でも、マイケル・ハートは「日本には革命闘争の並外れた伝統があることはよく承知しており、今後数年のうちに、その炎が再び燃え上がることを熱願している。」と結んでいる。
第一部は指導という問題を扱い、5章からなる。第1章「指導者はどこへ行った」では、「今日の運動における指導者欠如が偶発的でも単発的でもない」とし、第2章「ケンタウロスの戦略と戦術」で、マルチチュードが戦略を担うべしとしている。第3章では、アガンベンとデリダにも触れながら構成的権力(constituting power)について論考しており、その再評価によって2011年以降の泊まり込み抗議運動を肯定的に解釈している。(p.58-59)
第二部は社会的生産。マキャヴェッリ、スピノザ、そしてアーレントからフーコーまでを考察して、政治的リアリズムをマルチチュードから出発するとしている。第6章冒頭で、「私的所有は自由、正義、発展の基礎ではなく、たんにその反対である。・・・私的所有そのものが問題なのである。」(p.124)と断定している。1960年代批判的法学研究(CLS)が法は経済から自律的でないことを明らかにし、「政治からも自律的でなく、法そのものが政治的武器なのである。」(p.128)と述べているのが、制度の変革への望みを示唆する。「今日、私たちは、平等で開かれた富の共有様式を確立し、社会的富へのアクセス、その使用、管理運営、分配について共同で民主的に決定する権利を設立する潜勢力を有している。」(p.141)となる。「私的所有による繁栄への偽りの約束は、安全性を作り出すという実現されない近いと交差する。」(p.148)まさに、格差を生み、戦争を誘発するという問題は、私的所有から来ているというのだ。第7章では、「われらが機械状主体である」とし、「諸機械は隷属と解放の両方へ向かう潜勢力を含んでいる。問題は存在論的レヴェルにではなく、政治的レヴェルに存しているのだ。」(p.156)
第8章では、ウェーバーの職業的官僚分析からはじまり、近代的行政が主客逆転を行っているとする。「すなわちそれは、あらゆる人間的・社会的現象が計測可能だと主張するのではなく、それらをフィルターにかけ、客観的データのみを機械への入力としてうけいれるのである。・・・・近代官僚制機械において、あなたは数字になるのだ。」(181)このことは、住宅の品確法(1999年)によって、あたかも建築の質が評価できるかのごとく法規制する今の日本のしくみを、鈴木成文が強く批判していたことを思い出す。そしてまさにこの本の主張「社会的生産者・再生産者は一つの人民へと還元させられることを拒否したが、しかしそれはもはや群衆としても大衆としても捉えることができない。彼ら/彼女らは、主人公たるマルチチュードとして、機械状動的編成として、すでに舞台に登場しているのである。」(p.189)が現れる。そしてそれは、第9章の表題「マルチチュードの起業家活動」として展開する。
第三部は金融の指令と新自由主義のガバナンスと題し、金融は資本主義的生産様式の重要な構成要素であるが、上からみると金融資本が生産を採取しているように見えるが、下から把握すると<共>コモンが浮かび上がるとする。「医療や教育分野の労働者は、無給であっても、あるいは貧困線をわずかに上回るだけの賃金しか受け取れていない場合でも、知識とケア、知性と情動を高度なデジタル技術と組み合わせて駆使している。」(p.230)と解する。これは、建築家や構造技術者にも当てはまることだ。「生産過程の完成を、商品が製造ラインから出て来たときでなく、消費者が商品を使用する時だと考える。」(p.235)は、小さな漁業集落で持続可能経済を考えるときの示唆を与える。今やロジスティクスは生産の内部に位置づけられる。第11章で貨幣を直接論考の対象としている。(1a)漁師、農民の仕事の時代、(2a)大量生産段階、(3a)金融資本段階と採取形態が変わる。(1a)絶対的剰余価値として蓄積、(2b)相対的剰余価値の採取、(3b)生政治的剰余価値を対象とする、社会的・認知的・生政治的な搾取と分析。「工業化の進展と軌を一にして職人の職業的自立性は消し去られ、労働者の知識は機械的な価値増殖過程に全面的に隷属されてしまった」とあるのは、日本の建築制度にも当てはまる。建築基準法の詳細化により、建築設計が職人から労働者に変えられた。まさに労働力の大衆化である。そうした分析の中で、ジンメルの社会学的分析が希望を与えている。「悲劇的なまでに商品化された社会における貨幣の権力を予期している。しかしそこには主体性の生産がいたるところでもなされている社会でもある。・・・・知性的・認知的生産の社会的役割を強調する。」(p.257)
分析は進み、第12章では、失調する(蝶番から外れた)新自由主義的行政管理の題で、世界の新自由主義の危機的状況を解説する。「日本では、増大する不安定な若者層をフリーターと呼ぶが、この語には自分自身の起業家にさせられた個々の労働者たちの抱く新自由主義的な自由についての苦いアイロニーがいっぱい詰め込まれている。」(p.278)「行政能力が民間の手へと移されていること」(p.290)が新自由主義における公権力の空洞化を表している。都市計画や再開発がすべてコンサルの手に委ねてしまっているわが国はその典型と言えよう。「資本と新自由主義的行政管理が、主体性と価値を階層的な図式の下で測定し、コード化し、再生産する能力は弱まっている」「<共>を採取して私有化する資本主義的権利に異を唱えるだけでなく、新自由主義の服従化プロセスを解き明かし、それと戦わねばならない」(p.295)と檄を飛ばしている。
第四部は「新しい<君主>」「マルチチュードは、民主的諸制度をラディカルに革新し、社会的生が書き込まれている<共>を共同で管理運営する能力を発展させることで、いままでとは違ったやり方で権力を奪取しなければならない。」(p.300)と言う。第13章は「政治的リアリズム」第一に、労働力は生産手段を領有する潜勢力を持っている。第二に、労働の新たな力は、仕事の社会的性質の増大によってはっきりと示されている。その第三は、マルチチュードの起業家活動の台頭である。(p.303-304)第14章は「不可能な改革主義」で、3つの流れを挙げている。20世紀初頭のナショナリスト修正主義はうまく行かなかった。第二次大戦後の社会民主主義的改革も失敗した。そして、冷戦後の新自由主義も格差拡大でしかない。第15章「そして、いま何を?」マルチチュードを武装させる武器とは何か。それが集団的主体性であり、知識・知性・情報であるように読んだ。民主的構造を構成する三つの道筋。「第一に、支配的諸制度から撤退して、新しい社会的諸関係を小規模に確立、第二に現に存在する社会的・政治的諸制度を内側から変革、最後に、権力を奪取し、新しい社会の諸制度を創出すること」(p.360)こう書かれると、われわれが建築基本法制定の運動は、まさにそのことのように見えてくる。第16章「羅針儀海図」では、本書でよびかけと応答として、さまざまな航海指示を提供したのだという。「社会的富のあらゆる形態を、私的所有の支配と国家の統制から引き離し、<共>ということで開放していくことは可能なのである。」(p.379)だとすれば、抵抗と抗議だけでなく、建設的プロジェクトとしてマルチチュードのアセンブリによって新しい社会を生み出そうということになる。
21世紀に入ってからの各地で勃興する泊り込みなどの運動が、今後の展開にどうつながるか良く見えないのであるが、建築専門家として、生産にかかわり、生産手段を自らコントロールすることは、不可能でないように思う。建築基本法制定運動が、ネグリ・ハートのいうマルチチュードによるコモン(共)の管理運営に通じるものであることを、これからの更なる議論で確かめたい。