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書散裸#33 10代の軌跡 18歳編

今更気づいたが、誕生日が12月なので、単純に17歳=高2って感じにしちゃうと上が詰まる。19歳は大学1年と2年で2部書こう。


18歳。高校3年生。



体育祭、開催ならず。

体育委員会という、運動部部長の寄せ集め集団の長をやっていた。もとは副委員長だったが、委員長が飛んだ結果繰り上がった。

なかなか準備に力を入れていたのだが、体育祭が行われることはなかった。

この時代の学生なら絶対コロナの被害を何かしら被っている。それほどあのパンデミックは鮮烈だった。記憶が薄れても忘れちゃいけない。

文転

受験以外に使う時間がどんどん減っていく。確実に心が豊かじゃなくなると思う。現代文は文章が読めて救いだったが、点数用の方法論が前面に出てくると、その楽しさは目減りしていった。ゲームとしては面白かった。

高3になるタイミングで文転しクラスを移った。タイミングが遅くて無理を言って変えてもらった。担任ありがとう。

自分はかなり大学受験の病魔に精神を蝕まれていたと思う。過去形なわけだが、この一年は特に偏差値の物差しばかり使っていた。

このnoteの多分初めの方、読み返してみなきゃわからないけど、自分はムーブメントを起こす革命家になりたかったのだと思う。

その為に、世に出た時の価値の判断材料として学歴が欲しかった。
もっと純粋に「知」の土壌に憧れたこともあって、最初は京都大学総合人間学部に行きたかった。
その為には学校の勉強じゃ到底届かない。
そう自分に言い聞かせて、世間に数多流布する勉強法に踊らされながらユラユラしていた結果、学力は5教科7科目で全体偏差値で50前半、文系3科目で60くらいと、自分の目標設定には到底及ばないものであった。
勉強しなかった訳ではなく、やっていたが努力のベクトルが違っていたし、薄々実感してるから身が入らない。という悪循環に居たように思う。

受験期間は予備校に一瞬入ったが肌に合わず3ヶ月でやめて基本学校との往復だった。これまた親不孝。学校、電車、最寄りのサンマルク、家。このサイクル。サンマルク行けない日はモンスターとクッキーでブースト。1日頑張るのにその分のお金払わないと頑張れないっていうカスっぷりだった。

今でもサンマルクが一番好きな喫茶店。三角チョコパイが美味すぎる。バイトの面接落とされてちょっとだけ嫌いになったが、その支店が嫌いなだけで最寄りのサンマルクは悪くない。貧乏受験生に優しく、300円で8時間くらい粘ってた。つまみ出さない優しさ。

文転したにも関わらず、常に成績の足を引っ張り時間を圧迫したのは理系科目。特に数学。結果克服できないまま共通テストへ。直前期、ほぼ数学を捨てることを決意。他の短期集中が効果的な科目にベット。数学の難化で平均点鬼下りにより、作戦成功!偏差値50代の国立なら割と平気で出せる!となった。関東の人気の国立は厳しかったが、なるべく遠くで一人暮らししたかった。学費を理由に、全てはプライドで私立の選択肢は拒否。(けど2校とも落ちてる)選べる中の学部を精出する。その作業よりもどうしても「上にいきたい」がチラついてしまった。ここが毒されてるところだと思う。自分の性分もあるだろう。勝ち戦よりは負け戦でもいいから必死になりたい。そんな逆境の主人公妄想に囚われていた。

担任に勧めてもらっていた九州大学共創学部を目指すことに。だがその独特な小論文形式に諦めて法学部を受験。法学部は他の文系学部の授業と交換できたし、なんか良いなと思ったけどなんだったっけ。まあでもやっつけ仕事に変わりはない。得点開示はしていないが、確実に数学で落ちたことが明白だった。せめて数学ないところ受けろよ、と今なら思うが負けたくなかったようだ。負けたけど。

結果的に後期受験を決意する。そこで出てくるのが我らが長崎大学多文化社会学部。共通テストは私立文系のような3科目でよく、あとは小論文。もともと論理的な文章を読んだり書いたりすることが好きだったので、対策は前期の結果に上の空になりながらもちょっとだけやって臨んだ。これまた今思えばもっと小論文活かせる受験の仕方すればいいのにと思ってしまうが、一般こそ至上!みたいな価値観に侵されていた。

長崎上陸。九大のある福岡は父が同伴してくれたが、長崎は1人での初旅。長崎駅前の牡蠣入りちゃんぽんを前日に食べた。攻めすぎ。
当日お腹が…というようなこともなく無事書き切った。
結果は合格。ちなみに12/12。俺の代で最後の後期入試だったので、多文化社会学部の後期入試最下位記録は俺が保持している。なんと縁があるのだろうか。

浪人ととても迷ったけれど、当初行きたかった総合系の学部に加えてお笑いサークルの存在を知り入学を決意した。

お笑いにハマる

何故お笑いサークルが決め手になったのか。
そもそも昔から好きだったのか?
否、俺がちゃんとお笑いにハマったのは受験生だったこの年だった。
何をキッカケか忘れたが、ジャルジャルのネタ動画を合間合間に見るようになり、そこから何故かわからないが金属バットに派生してM-1に。2021年である。KOCも生で見ていて、賞レースの面白さをどっぷり味わった。そしてM-1、金属バットのラストイヤー。準々決勝くらいから追っていき応援した。
決勝にストレートで金属バットは進出できず。敗者復活戦に挑み、結果は2位になる。1位はハライチ。俺は金属バットが一番面白かったと思う。まだ言ってますけども。
その決勝でみた真空ジェシカに衝撃を覚えた。
この2コンビに主に背中を押されてやってみたいと考えるようになったのだと思う。
というお笑いのルーツの話までちょっとだけ入れてみた。


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