書散裸#34 10代の軌跡 19歳編②
いよいよ最終稿になる。
まだ気持ちが20歳に移行していない、と自分に言い聞かせるのもこの記事が最後になる。今日、2023年の終わりの日が最後になる。
はずだったのだけれど、ちょっと間に合わなかった。この記事の書き方を迷っていたら親族の会合に突入してしまった。
帰りの車内でヌルッと年明けしたのでまだそんなに実感がない。
このnoteで2023とも10代とも一度踏ん切りをつける。
さよなら10代。
19~20歳直前。大学2年生。
パートナー、爆誕
この1年の一番の変化はパートナーができたこと。
いわゆる彼女である。
わざわざnoteで惚気書くのもどうなのよ、とは思うけれど、「裸」というテーマに寄り添うなら書かないわけにもいかない。
4月末だったか。交際が始まる。
別に惚気が書きたいわけではないので、詳細は伏せる。
このことで重要なのは自分の人への価値観、感情の変化。それに伴う生活の変化だ。
これまで、恋愛というものに対して、誰かに恋愛ができてるのか、恋愛自体に憧れているのか、その辺が結局よくわからなかった。思えば、自分が様々なフィクションから吸収した恋愛観というやつに誰かをアレゴリーする、あてはめるような、その人をより理想化したものに恋心を募らせる行為をしてきたように思う。それが果たして愛なのか。
この1年間、パートナーと過ごす時間の中で、この問いのとっかかりがつかめてきたように思う。「愛おしい」とか、言葉はなんでもいいのだけれど、そういう感情が現実味を帯びた。
ロラン・バルトの『恋愛のディスクール』という本があるのだけれど、やはり途中でやめずにもっと読むことにしょう。
理屈で把握するものじゃない、なんて言われてしまうだろう。そう、言葉にするってことは何かを言葉にしないということだ。言葉にするそのプロセスで、絶対に包摂されない、零れ落ちる要素がある。そのことを感じながらも、内にある感情を共有するためにあえて言葉にすることが大事なのかな、なんてことをバルトを読んで思った。
喜ぶかな、と思って行動してみたり。逆に悲しむかな、と思って行動してみたり。美味しい、その時間を共有するために食事への自分自身の価値観をアップデートしてみたり(食べるものは基本的に今でもあまり選ばないが、食事に使うお金にもっと厳しかった)。服装に少し気を遣うようになったり。MOROHAやSUPER BEAVERを聴いて、今まで刺さっていなかった歌詞に涙が出たり。ネタ作りや舞台に立つ上での姿勢を考えさせられたり。眠ることも、眠るまでの時間も楽しくなったり。
人との距離感、温度、命の尊さ、何より自分自身について知る機会になった。
個別具体的なイベントやそれにまつわる感情は2人さえ共有していればいいと思うのでわざわざ書いたりはしない。書き始めたらキリがないくらい色々なことがあった。
よく手紙をもらって、言葉にすることの重要性をここでも感じた。
直接対話すること、顔を突き合わせて肉声で会話することも勿論大事だけど、書くという行為によって言葉を丁寧にしていきたい。
思想
講義も去年よりは専門化し、ゼミにも所属したことで専門に接する時間が増えた。そうやって沈んで思考する時間が増えるほど、何か他のことに時間を割くことがあまり有意義に思えなくなっていったから学校をサボりがちになっているのかもしれない。いや、ただ怠惰なだけか。なぜ怠惰なのか。これは表裏一体のようだ。
自分の哲学的或いは思想的な問題意識の根本にあるものは、
「ヒトとヒトが笑い合える世界で生きたい」
ただそれだけ。
ヒトとヒトが笑い合うこと。そして生きていくということ。
おかしいもの、興味深いもの、面白いもので世界は溢れていると同時に、笑えない現実ってやつがある。その笑えない現実を考えていると、自分が面白がっていたものについての輪郭がより明瞭になる。それで笑えなくなるものもあれば、より面白いと思うものもある。
生きることを肯定したい。誰かと笑い合う、「面白い」「楽しい」を供する時間は生きていてよかったと思うに値する力があると思うから。
そのために、笑えない現実を変えていかなきゃいけない。
11月くらいから、ずっと鬱々、沸々とこんなことを考えている。
お笑いサークルCCC、副部長に
副部長に就任。
1年目の我武者羅な状態が最初の新歓イベントの時期は続いていた。その我武者羅に魅かれてきたのか、部員が倍に膨れ上がり今は30人。
舞台に立って人を笑かしたい一個人である自分と、副部長としてサークル全体を考えて行動する自分、その両端の間をいったりきたりする一年だった。
去年以上にネタを作って舞台にも立った。
去年以上に団体として、構成員やサークルの今後を考えもした。
これは別の記事にまとめるけど、CCCという場は今の枠に留まらない可能性を秘めていると思う。「お笑い」の中で結果が出てる範囲もそうだし、共同体としても。
この年は去年以上に「お笑い」への向き合い方、モチベーションが転々と変化した。
土田寄席は幸せな疲労感でもう辞めてもいいと思った。
新歓の時期は初めてのお客さんが多い中、つまり比較的アウェイの状態で今までよりもウケるようになって自信がついた。
Sugarの時期もその影響か、動員人数も増えた。自分のネタで合わせにいったネタとやりたい好きなネタがあり、それをミスっておじゃんに。順位も低迷。落ち込む。
M-1対策、タコ滑り、打ち上げゲロ泣き。
この時期までは感情の起伏が激しかった。いいときと悪いときが違いすぎた。
M-1本番。負けた。1回戦敗退。悔しい。けどそれより、ちゃんとウケた方が嬉しかったし安心してしまった。落ちて悔しがっているやつらと同じテンションで悔しがることができなかった。
土竜の板スタート。オーディション落ちまくったのは喰らったが、土田寄席の次に楽しいライブになった。アドレナリン。
JAM、お情けで出してもらい無事ウケた。土竜ほど感情が動かず。
この辺くらいから感情の動きが減る。あんまり順位が気にならない。自分の笑いができているから気にならないともいえるし、順位が気になるほど本気のネタができていないのかもしれない。
そしてLOTUS。オーディションで全部通過。これは達成感があった。ライブに出れる喜び。一方でライブ慣れしてきている自分。新ネタとはいえ、オーディションを経て、それなりにウケたから突破しているわけで、そういう意味で鬼気迫るものが減っているのかもしれない。嘘、めっちゃ緊張するし心臓はバクバクはしている。特に一個目のボケがウケるまではかなりやばい。ペースメーカー一回つけて漫才してみたいな。面白そう。ライブの企画にできないかしら。
舞台慣れは華にも繋がると思うから、それは良い成長。だが、このくらいで妙にこなれた感じは出すものじゃない。もっと鬼気迫るものを内面から出さなきゃいけない。笑いにくくなったら困るけど、賭けている熱量は必要。
10代が終わるということ
10代のうちに何かを成さなきゃいけない。
椎名林檎は丸の内サディスティックを10代で書いたらしい。
そういうプレミアがつく時期が終わった。
自分自身への期待。存在を根拠づける劇的な出来事、それによって生まれる自信。その獲得に見切りをつけるのが10代なのではないか。正確には、薄々見切りをつけ始める時期。
自分自身の可能性、特別な存在でありたいという気持ち。そこに陰りが見えてくるようになる。自分が諦めたのにまだ諦めていないやつがいる。可能性を「妄信」しているように見えるやつに厳しくなってくる。
「現実を見ろ」「そろそろ落ち着け」「責任があるんだぞ」それにまつわる言葉。
この言葉をぶつけられていくようになる。
なんだそれ
現実って何、落ち着くって何、責任って何。
自分なりの言葉として言ってきてんのか。
誰かに昔言われたことに「そんなもんなんかな~」で妥協して、それに適合させる形で、実感として理解したように言う。
そんな言葉には負けたくない。
それに、10代が終わると「思春期」が終わったという風に捉えられる。身体的な成長も劇的なものはもうあまりないし、精神的にも、‘社会‘の構成員としては未熟と扱われながらも、最低限の「責任」やらを求められるようになる。そこに「思春期」はない。「もういい大人なんだから」と。大人の意味を皆見つけ終わったのか。それなら凄いよな。俺にはずっと大人の意味がわからない。「思春期」という言葉やふんわりとした概念に、様々な葛藤を押し込みすぎている。年齢という基軸によって強制終了させる。葛藤と訣別する。肝心なものを先送りしてしまっていないか。それとも20歳までに完全に昇華することが求められているのだろうか。
こういった抵抗の精神を10代と結びつけている点は自分自身もステレオタイプ的なのかもしれない。自分自身を確立しようと思えば思うほど、周りのことに目を向ける。周りからの相対化によって自分を規定しようとする。なのに、その範囲から都合の悪い悲劇がどんどん抜け落ちていく。「繊細だ」「考えすぎ」「ああ言えばこう言う」そういうものを消し去って、拘泥することを面倒くさい奴、悪として表象されていく。
わからない、納得できないことを「まあそんなもんかな~」で終わらせたくない。
最近、色々なことに無感覚になっていた自分を自覚していた。けど、なかなかその状態から脱しなかった。理由は簡単、楽だからだ。色々目を瞑ってしまった方が気にすることが減ってストレスなく生きていける。しかし、実際どうだ。目を瞑った状態で歩く方がストレスじゃないか。もちろん、瞬きすることも、ちょっと目を閉じることもあるだろう。けど、ずっと目を瞑ることはむしろ精神を蝕む。少なくとも自分の場合は。
10代を終わらすことは、目を瞑って蓋をすること。
そうじゃない。
10代を終わらすことは、思わず目を背けてしまいたくなりながらも、同時に強烈に惹き込まれる目の前の現実に対して、沈黙を終わらすこと。
これまで疑問に思ったこと。理不尽に感じたこと。わからない、説明できない、だから呑み込んだこと。そういうものに言葉を与えるための20代を始めよう。
いつでも過去を振り返ればいい。振り返る視線の先には、俺が生き抜いた10代、その時々の自分がいる。必死なときもあれば緩み切ったときもあるだろう。それでいい。その軌跡を再び撫でる。その感触から記憶を掘り起こす。そして今対峙する現実へのヒントを探そう。大丈夫、それなら10代が終わる、ってことも本質的にはないのかもしれない。駆けていく未来、それよりも駆け抜けた過去のほうがよっぽどリアルだから。その積み重ねがまた過去になっていく。積み重ねた瓦礫の中から、自分という歴史の断片を救い上げる。あの時意味がないと思ったことも、今対峙する現実に照らし合わせたら意味を持つかもしれない。それは今じゃなくてもっと先の未来で意味を持つかもしれない。
10代が終わる。
終わる、その終着点は同時に出発の点でもある。
この生が続いていく限り、それは一本の線になっていく、はずだから。
さよなら、10代。
ようこそ、20代。