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人が生きていることを忘れる

先月、実家のある埼玉へ帰省しました。
帰省中、大切な用事のため埼京線に乗ろうとしたとき、電車が15分遅延しました。

人が線路に立ち入ったため、だそうです。

人が線路に立ち入ったため。

人が線路に立ち入ったため。

私は「そのせい」で、大事な予定に遅れるところでした。

無事間に合ったものの、
「遅れるかも!」と焦って全力で走っていた道中、
一度も「線路に立ち入った人」のことを考えることはありませんでした。

ふと頭によぎるときがあったとすればそれは、
「なんで線路なんかに入ったのさーもう!」
という、その「人」のことというより、
その人の「迷惑さ」についてでした。

でも、
どうして、
線路に立ち入ったのでしょう?

電車の遅延で影響を受けた人がたくさんいるなか、
「線路に立ち入った人」について思い浮かべた人はどれだけいただろうと、

そしてもし自分が、将来、線路に立ち入ることがあったとき、
誰にも想いを寄せられなかったら少し悲しいだろうなあ
などなど思いながら、

「線路に立ち入った人」がそのとき「生きている」事実を考えなかった自分に少し寂しさを感じました。

線路に立ち入ることは「迷惑」で、イライラすることではあるかもしれないけど、
そういうときに、

どうして、線路に立ち入ったのだろう?

と考えると、なんだか勝手にその人とつながれたような気がして、イライラが少し減るような。
そして、自分も何かしたときに、誰かにそんなふうに考えてもらえる気がして、生きることが少し楽しくなるような。

いつでも、
「どんな人も生きている」ことを忘れないで過ごしたいです。


あおぴー