(小説)宇宙ステーション・救世主編(三・二)
(三・二)夢
北が去り宇宙駅で一人になると、忽ち強烈な眠気に襲われる雪。北の唾液やら体液やらによって汚された肉体をさーっとシャワーで洗い清めると、さっさとベッドに潜る。直ぐに睡魔が雪を襲う。深い眠りの中へと落ちてゆく雪、眠りの中ではまたいつものように夢を見る。幾度となく繰り返し見る過去を辿る夢。
いつものように夜明け前、何処とも知れない降り頻る雪の景色から始まる夢。どきどき、どきどきっ、少女はまだその女のお腹の中にいる、どきどき、どきどきっ……。
暗い、そこは暗黒である。女はひとり、いつも女を取り囲む狂気の男たちも今はいない。その窓一つない牢獄の如き空間の片隅で、今女は束の間の安らかな眠りに身を任せている。或いは意識を失っているのかも知れない。
そこへゴロゴロゴロッ、地響きを立てながら突然の雷鳴が辺りに響き渡る。はっとして女は嫌でも目が覚める。女には見えないが外は深々と降り続く雪、そこへ冬の雷。その時女に異変が起こる。女は、産気付くのである。
けれど既に思考すら奪われた女はそれにすら気付かず、ただその肉体が営むままを受け入れるのみ。かくて誰にも見守られることなく、その暗黒の中で女は体内に宿していた命即ち少女を産み落とす。少女は男たちによって悪戯に傷付けられた女のガラス細工と化した産道を通過し、遂にこの現世へと生誕する。
なのに女は自らが出産した自覚すらない故、今産んだばかりの我が子、少女に何ら関心を示すことが出来ない。よって少女は、母であるその女の腕や胸のぬくもりにすら触れる機会を永久に失ってしまう。加えて誰が父親なのか定かでない。そんな少女を今迎え入れたのは唯一、暗黒のみ。今迄辛うじて少女を守っていた母胎すら誕生の名の下に喪失した少女は、文字通り裸一貫である。
そんな自らの境遇、守ってくれる者のない宿命を、生まれ落ちた瞬時にて本能的に悟るのか、それ故に少女は産声を上げず、以後も決して泣かないのである。泣かない故、少女は一滴の涙をも流さない。では少女が生まれ来て、この世界に対し示した反応は何か、それは、震え。母胎の体温を失った少女は極寒に曝され、震えている。
生まれたことで母胎である女から少女が失ったものは、体温のみでは勿論ない。女から絶えず伝えられた様々なる感情例えば、恐怖、苦痛、怒り、諦め、狂気、かなしみ、絶望……そして憎しみ、それらも同時に失った筈である。なのに女から離れて尚、まだ少女の中に女より受け継いだものが確かに残され刻まれている気がしてならない。少女は確かに何かを受け継いでいる。何か、ただそれが何かを自覚する為に、少女はまだ余りに幼い。
自覚無き出産を終えた女と、無言にて生まれ来た少女だけがいるその暗闇の世界に、突如光が射す。それが希望の光であろう筈はなく、むしろ息が詰まる程閉鎖的なるその暗黒と凍結境である牢獄の如き空間に射した光は、貧しき一個の裸電球のそれである。また同時に狂気の男たちが集い女を玩具とし観賞する欲望と、女にとっては絶望のそれである。
乏しき光と共に、女の周りを男たちが取り囲む。されど女に反応はない、対して少女は即座に男たちから発する邪気によって恐怖の底に突き落とされる。少女が母胎を離れて初めて自らの肌で感じる恐怖である。少女即ち生まれたての赤子の姿を発見した男たちの驚嘆、どよめき、喚声といったらない。普段注目の的とする女のことなど忘却する程の騒ぎ。
「凄い、本当に生まれたのか」
「素晴らしい、何という生命の神秘」
「しかも女ではないか」
しかし驚き、賞賛の声も長くは続かない。直ぐに罵声と嘲笑とに変わり、容赦なく少女へと浴びせられる。ようやく女に注目が移るかと思えば、床にうずくまる女を誰かが足で転がし蹴り起こす。
「ほら、お前の子だろ。父親は誰だ」
男たちの嘲笑が女へと向けられたのも束の間、少女を見詰める男たちの目は突然怒りに震え出す。
「この神聖なる我らの儀式の場で出産するとは」
「汚れた血によって、冒涜されてしまったではないか。どうしてくれよう」
「面倒だ、さっさと処分してしまえ」
といっても自分たちで直接手を下す連中ではない。そこで呼ばれたのが、ちんぴらのゴロ助。
「お前の手で始末して、何処か遠くへ捨てて来い」
こうして赤子の少女はゴロ助の手に。しかしゴロ助とて容易なことではない。仕方なく新聞紙に少女を包み、自分の車に乗せ一旦は車内で殺害しようとしたものの、いざ手を掛けようとすると少女の邪気のない笑顔が邪魔をする、とても殺せない。たとえ一瞬でもゴロ助の手に抱かれた少女は、初めて接する人の手肌のぬくもりに、生まれて初めて笑みを浮かべたのである。
どうしたもんかと迷いながら、ゴロ助は雪の降り頻るまだ薄暗い夜明けの町を車を走らせ、近くの川の岸辺まで来る。川のせせらぎ、川か。ゴロ助は閃く、そうだ、そうしちまえ。新聞紙に包んだ少女を手に抱きながら車を降り、きょろきょろと周囲を見回し誰もいないのを確かめると、
「後生だから、おいらを恨むなよ」
少女にそう告げるや、ゴロ助は新聞紙と一緒に少女を川の面にそっと流す。川は上流から下流へと静かに流れ、途中吉原の脇を通過し、やがて東京湾へと注ぐのである。
どきどき、どきどきっ、ゴロ助の手のぬくもりを離れ、雪の降り頻る川に捨てられた少女は玉のように浮いて、川の流れに身を任せる。途中肉体を包んでいた新聞紙は離れ、裸身の少女は直接川の水の冷たさに曝される。寒くない筈がない、それどころか凍り付く冷たさである。少女は幼いながらも、自分がこのまま凍死するものと悟り覚悟する。けれど幸か不幸か少女は死なない。ここで死んではならぬ定めであったとしか言いようのない奇蹟である。
確かにそこに身を置かれた当初は凍り付く冷たさだった筈の川が、不思議にその後少女には温かく感じられるようになる。あたかも感情を持った水という生物たちが少女を不憫に思い、やさしく包み込み温めるかの如く。それが証拠に少女はにこにこ笑みを浮かべ、川の流れに身を任せゆく、母のように川を慕い揺りかごに揺られるようにゆらゆらと。どきどき、どきどきっ、少女には川の鼓動さえ感じられる程、その時川は少女にとって確かに母、母胎である。
相変わらず天気は雪、川には雪が降り頻っている。どきどき、どきどきっと、少女は雪の鼓動をも感じながら、どんぶらこ、どんぶらこと川の面に浮いて流れる。その姿は裸身である故一個の丸い桃の実、桃太郎のようである。もしこのまま息絶えることなく流れてゆけるならば、やがては辿り着くであろう、東京湾、遥かなる海へ。少女は母なる海への憧憬で胸をいっぱいにする。
夜が徐々に明け、少女にとって初めての朝が間近に訪れようとしている。この世界がいよいよ少女の前にその姿を現さんとするその矢先、ところが聴いた覚えのある声が何処からか少女の耳に響く、あの声が。
『だれか、こいつらをころして』
少女ははっとして、あの女のことを思い出す、思い出し後悔に苛まれる。わたしはあの人をひとり、あの場所に置き去りにして来てしまった。わたしは、この川よりも更に冷たく凍り付くようなあの牢獄の中に……。
はっとして目が覚める雪。その頬には矢張り涙などない。悲しき夢に目覚めた夕暮れ時でさえ、悲嘆の涙になど暮れない雪である。
月が替わる前、宇宙駅のドアを叩いて、
「えらいこっちゃ、えらいこっちゃ」
お節が飛び込んで来る。
「どないしたん、そんなに慌てて」
「何呑気なこと言うてんねん、どういうこっちゃ、な、あんた」
「そやから、どないしたママ、そんな青い顔して。落ち着いてーな、もう」
そこでお節は、一気にまくし立てる。
「どないもこないもあらへんわ。あんた、また死んだで、あんたの客」
ところが、
「へっ」
間抜けな声を漏らしたばかりで雪は顔色一つ変えない、三上組組長の時と同じである。
「へって、それだけかい」
余りの無反応振りにまたも呆れ返るお節。そんなお節をよそにぼんやりと雪は窓の外に目をやる、迷子になった幼子の如く、それは寂しげな眼差しをして。
そやから言うたったのに、ちゃんと。かなわんわ雪、あのおっさんの自業自得や。窓の外には雪が降り始める。
「ママ見て、ほら、雪や」
お節の話など忘れたふうで、雪は興奮した声。
「そんなん分かってる。そんなことよりあんた」
「な、名残り雪やろか」
「そんなん知るか」
お節の不機嫌など意に介さず続ける雪、といっても話の相手はもうお節ではない。
「何の名残りなん。な、お雪さん」
宇宙駅の窓ガラスに凍えるような雪のため息が白く曇る。
「そんなん、どうでもええやろ。それよかあんた、今ニュースで大騒ぎしてるで」
「そか」
「そか、て、もっと吃驚せんかい。あんたもほれ、事務所行って見てき」
「ええは」
「何で、あんたの客がまた死んだんやで。ほんまおっそろしい子やなあ」
「嫌いやねん雪、TVて。ただうるそうて、嘘ばっかしで」
「何偉そうなこと言うてんねん。それよかあんた、まさかとは思うけど、変なことしてへんやろな」
「変なことて」
「そやからお客さんに危ないこと。嫌やで、悪い評判が立ってもたら死活問題や」
「なんもしてへんて。何、危ないことて。そんなん雪なんも知らんわ、なあ、お雪さん」
曇ったガラス窓を拭き消すと、外は純白の雪。
お節の興奮も次第に冷め、
「まあ、あんたがそう言うんなら、ほんまやろ。信じるしかあらへんなあ。しゃーない、しゃーない」
お節が宇宙駅を出てゆくと、けだるい午後降り続く雪を眺めながら、何するでもなくぼんやりと時を過ごす雪。
北の死についてはマスコミで大きく報道されたものの、死因は心不全とされ、その詳細は伝えられない。結局三上のケースと同様、関係者以外真相は闇の中。北はこの半月内に複数の女と関係を持っていたが、雪を含めみんな性病検査に問題もなく且つ未だに元気に生存しており、桜毒の感染源として疑われることはなかった。
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