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【新作落語】さいなん缶

日曜日のリビング。パジャマ姿の夫が起きてくる。妻がそれを不機嫌な顔で見つめている。

夫「あー…。ちょっと昨日は飲みすぎた。おはよう」
妻「おはよう。私に何か言うことがあるんじゃないの?」
夫「え?えーっと…。あ、今晩テレビでランボーやるから録画しといてくれ。シルベスター・スタローンのランボー」
妻「ランボーはどうでもいいのよ」
夫「ずいぶんとお怒りのようで…」
妻「これ。なによ。資源ごみの袋の中に捨ててあったんだけど」
夫「あっ。…これは…ちょっと酒のつまみが切れてね…」
妻「つまみがないからってあなた、防災袋の中の缶詰を開けることはないでしょう!」
夫「いや、つまみがないと酒が味気ないだろ。だからいろいろと台所を探してたら、これを思い出してね。ついつい、パカッと。えへへ」
妻「えへへじゃないでしょう。これは非常時の食料なのよ。それをあなた、おつまみにするとかどういうつもり?」
夫「いやいや、だってこれ、買った時に確認したけど、近江牛だぜ?ほら近江牛の時雨煮。そりゃ食べちゃうだろう。普通、防災用の保存食ってもっと地味な感じだろうよ。こんな金のラベルで近江牛!食べちゃうよこんなの…」
妻「それで、宮崎産地鶏の缶も三陸産サンマの缶も食べたと」
夫「美味しいんで止まらなくて…」
妻「あなたね、災害をずいぶんとなめてるんじゃないの?」
夫「いやそんなに大きな災害なんてほいほい来るもんじゃないし…」
妻「そう思ってて突然来るから怖いんでしょ災害は。だから備えが必要なのよ」
夫「ごめんごめん。どうしてかなあ、飲んでるとどんどん、際限なくつまみが欲しくなっちゃうんだ俺は…」
妻「酔っ払うと指が蛇みたいになって伸びてるんじゃないの?おつまみ探して」
夫「蛇じゃないよ俺の指は。どっちかっていうと、イソギンチャクの触手かな」
妻「もっと気味が悪いじゃない。よしてよ。とにかく食い意地が張りすぎなのよ。飲んだら余計に。ちゃんと反省してるの?」
夫「反省してます…」
妻「あなたが家飲み派なのはね、助かってると思うのよ私も。飲みに行ったらお金がもっともっとかかるんだから。でもね、こんな、非常食をおつまみにするような非常識なことは、もう絶対やめてちょうだい」
夫「わかった。わかりました。代わりの缶詰を買ってくるから。ね?」
妻「もう絶対に、おつまみに食べちゃわないものを買ってきてよ。絶対によ?」
夫「絶対に、食べない缶詰。よし、了解」

家を出て缶詰を買いに出かける夫。

夫「いやあ失敗したな。酒を飲むと、つまみに伸びる手が止まらないんだよ。せめて一缶だけにしときゃよかった。三つも開けて食べたらそりゃ怒るよな。こりゃあ、繰り返さないように、絶対に開けたくない缶詰を選ばないと…よし、この大きなスーパーなら品揃えが多そうだ。ここで探そう。…おおっ、沢山あるなぁ。缶詰の博覧会だよ。あ、店員さんちょっとお尋ねしたいんですが…」
店「はい、なんでしょうか」
夫「この中で、一番、まずい缶詰をください」
店「どれも美味しいですよ」
夫「いや、まずくないと困るんだ。まず~いやつ、絶対開けたくないやつを、ひとつ」
店「まずいとは言いませんが、じゃあ珍しいものや、癖のあるものはどうですか?このアザラシのカレー缶詰なんてどうでしょう」
夫「アザラシ!アザラシの缶詰なんてあるんですか!」
店「北海道のお土産で売られているものです」
夫「アザラシ…脂肪が多くて、それがカレーに溶け込んで…なんだか美味そうだなあ…。いかん!食べたいじゃないか!」
店「じゃあトドはどうですか?」
夫「トドなんてもっと脂肪多そうじゃないか!駄目!駄目です!ケモノは駄目です!」
夫「じゃあ缶詰っぽくないものはどうでしょうか?だし巻き玉子とかタコ焼きとか、あとポテトサラダなんてのもありますよ」
夫「そんな居酒屋の一品料理みたいな美味しそうなものがいいわけないじゃないですか…」
店「魚も、ポピュラーなものじゃ駄目なんですよね?」
夫「魚なんて大好物だから絶対に駄目です!サンマの蒲焼きとかオイルサーディンとかもっての外ですよ!とんでもないです!」
店「とんでもないって…。わかりました。とにかく、どうしても開けたくない缶詰がいいんですね?…少々、お待ち下さい」
夫「なんだ?真剣な顔で何か取りに行ったぞ。怒らせちゃったかな?考えてみれば、まずい缶詰出せなんて客、そうそういないもんな…」
店「お待たせしました。これは、ある意味、最終兵器なのですが…」
夫「なんですかそれは。こりゃ…外国の?」
店「そうです。これはスウェーデンで生産されているシュールストレミングというものです」
夫「セールスに来たミミズク?」
店「どう聞き間違えたらそうなるんですか。シュールストレミング。ニシンの缶詰です」
夫「ニシンなんてそんな!私ゃニシン蕎麦が大好きなんですよ!こんなもの美味いに決まってるじゃないですか!却下だ!顔も見たくない!だいたいのニシンに顔はついてないけど!」
店「最後まで聞いてください。これは北欧の保存食で、薄い塩水に漬けただけのニシンを缶詰にしたものです。製造の過程で滅菌していないので缶の中で発酵がどんどん進むんです。その結果…」
夫「その結果…?」
店「世界一臭い缶詰が出来上がります!」
夫「世界一臭い!?ああ、そうか。あれですね、くさやと一緒だ」
店「くさやなんて目じゃないですよ。竹槍と生物兵器くらい違います。缶を開けるや否や腐った魚を大量にぶち撒けたような猛烈な臭いが容赦なく襲いかかり、その悪臭はまさに暴力!無慈悲!残忍極まりなし!臭いは簡単には消えず数年単位で悪夢を見てはうなされる…と言われています」
夫「なんでそんな恐ろしいものが売られているんですか…」
店「伝統食だからですよ。一応、食べ物なんですよ。しかしゲテモノ好きの好事家の間でもこれは最難関の代物と言われています。どうですか、これ、開けてみたいですか?」
夫「(かぶりを振る)」
店「じゃあ、これをお求めですね?」
夫「そうか、これなら…これなら開けないですわ。買います!いくらですか!」
店「はい、四千円になります」
夫「高っ!」
店「高いですよ。珍しいもの好きの人のために特別に輸入してるんですから」
夫「いや、でもこれなら間違っても開けないからそれだけの価値がある。買う。買います。はい。四千円ね。じゃ!」
店「えーっと、これ冷蔵ですからね。常温だと発酵が進み過ぎて缶が膨らむので。あと、開缶するなら必ず屋外で…あれ?もう帰った?聞いてたのかな?まあ、いいか。変なお客さんだったな…」

買って帰った珍しい缶詰を防災袋に詰めまして「もう大丈夫だ」と妻に告げて一ヶ月後。深夜にまたまた晩酌中の夫。

夫「ああ…染みるねえ。染みわたる。焼酎をロックで飲むのが美味い季節になったなぁ。だんだん、氷が溶けていく時間を楽しむのがいいんだ。その間はミックスナッツをつまみましてと…あれ?もう無い。しまったな。つまみをもう少し買っとくべきだった。けどだいたいスーパー行ってもうちのかみさんが買い物カゴを持ってるもんだから、そっとあれこれ忍ばせるのは難しいんだこれがまた。何か冷蔵庫にあったかな…。こう、都合よくタラコが買ってあったり…しないよなぁ。玉子しか入ってないや。ああ、口が寂しい。まだまだ飲みたいのにつまみが足りない。これはもう車を走らせたいのにガソリンが無いような緊急事態ですよ。ああ、何かないか、何か酒のつまみになるようなものがこの家に…」

ふと思いついて何かを探し始める夫。手の動きがどことなくイソギンチャクの触手に似ている。

夫「これだ。非常用防災袋。非常用だからな。つまみが切れた今は非常時だ。よし、缶詰をね、補充したじゃないですかこの間。ひどく怒られたけど、食べちゃったらまたこっそり補充すりゃいいんだから。ねえ。簡単なことだよ。どうせそうそう大地震なんて来ないんだから。さあさあ出ておいで缶詰ちゃん…。あれ?こんな…ラグビーボールみたいな形だっけ?そういえばたしか…悪魔のように臭いって言ってたな。世界一だとか。う~ん、でも、君は食べ物でしょう。食べ物ならそんな、大げさなことは、ねえ。よし、食べよう。缶切りを持ってきて、と」

夫が缶切りを突き立てた途端、猛烈な勢いで中身の汁が噴出してしまう。

夫「うわああ!汁が!汁が噴水のように!しまった。拭かなきゃ。雑巾はどこだ。雑巾を…おっ、おおっ、おおおっ、おぶえっ!く、臭ああ!くっっさあああ!なんじゃあこりゃあ!窓、窓を開けて換気を!し、汁を拭かなきゃ!うおえ臭あ!尋常じゃないよこれは!じ、地獄を出現させてしまった…!」

鼻と口を覆いながら遠巻きに缶を睨む夫。

夫「は、早く処分しないと…。しかしこれ、本当に食べ物なのか?す、捨てるなら一口だけ食べてみるべきか?だんだんと、鼻が慣れてきて、やや耐えられるようになったぞ…。(酒の残りを一気にあおって)ふう。い、いくか。食べてみるか…!」

缶を開けきり、中身を食べてみる夫。

夫「これは…イカの塩辛?チーズ風味?なんだかわからなくて猛烈に臭いけど、これは、確かに食べ物だ。うん。食べ物だよ。はああ、こんなものが世の中にあるとはね。いや、慣れるとそこそこ美味しいじゃないかこれ。臭い、美味い、臭い、美味い、臭い…」

酒をどんどん飲みながら、缶の中身をほぼ食べきる夫。そこへ妻が凄い剣幕で起きてくる。

妻「ちょっとお!なにこの臭いは!下水が逆流したの!?お、オエッ。ひ、酷い臭い!」
夫「ああ、ごめん。いや、ちょっと、缶詰を開けたら想像を絶するほど臭くて」
妻「臭いなんてもんじゃないわよ!なんだか嫌な臭いがするなあって悪い夢から目が覚めたら、現実が悪夢そのものじゃないの!その、缶詰だか災いだかよくわかんないもの、トイレに流してきて!早く!早く!」
夫「いや、あらかた食べてしまったから」
妻「じゃあなたがトイレに流れてきて!」
夫「無茶を言うなよ」
妻「いやあ!臭い!耐えられない!なんてことをするのあなたは!家の中でよりによってそんなものを!信じられない!」
夫「まさかこんなに臭いとは思わなかったんだよ。そんなに怒らないでくれよ。な?」
妻「ぎゃあ!近寄らないで!く、臭い!耐えられない!もう、なんか禍々しい!」
夫「わっ。物を投げるな!いたたっ。サイドスローでティッシュの箱が飛んできた」
妻「もう家飲み禁止!つまみも禁止!禁止禁止!錦糸町でもどこでも行って外で飲んできて!」
夫「わっ。今度はアンダースローで目覚まし時計が飛んできた。わかった。わかりました。本当にごめんよ。だから物を投げるのはやめてくれ!家が壊れる」
妻「(着替えながら)わ、私、とりあえず実家に緊急避難するから。完全に、完っ全に臭いが無くなってから連絡をちょうだい。オエッ。もう、本当にとんでもないことしてくれたわ。ウッ。じゃあ、頼んだわよ!」

妻が出て行き、取り残される夫。

夫「ああ、出てっちゃったよ…。カンカンに怒ってたな…。ウッ。意外に美味いことはわかったけど、自分の息が猛烈に臭いこともわかるなあ。参ったねえこりゃ。掃除もきちんとしなきゃ。臭いが消えるまでどれだけかかるんだろうこれ…」

荒れ放題の部屋を見回す夫。

夫「あーあ、戸棚が割れて、食器が落ちて、お皿の破片が床一面に散らばって、こりゃあ、足りないのはつまみよりも、防災意識でした」

 (終)


【青乃屋の一言】

こちらも2020年の「新作落語台本募集」に応募した噺です。締切一ヶ月前にようやくアイデアが浮かんで一気に書き上げました。
前半のやり取りはまあまあかな…と思うんですが、後半ただバタバタして終わってしまったなと反省しております。まだまだ精進ですね。