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座右の詩 茨木のり子 「自分の感受性くらい」、そして「汲むーY・Yにー」

今でもよく覚えている。中学3年生になる前の正月、年初の決意として、わたしは国語便覧で見つけた茨木のり子の詩「自分の感受性くらい」を、ルーズリーフに書き写した。

当時のわたしは、中学生という狭い世界の中ではあるけれど、それなりに”良い子”と評される自分を努力して作り上げていて、それをアイデンティティとしていた。そして思春期特有の生真面目さで「真の”良い子(良い人間)”とはなんだろう」、「わたしは真に優しく良い子(良い人間)でありたい」なんてことを考えていた。今思うと世界が狭すぎて赤面ものなのだけど、その真剣さは買ってやらなくては気の毒だ、と思うくらい一途に悩んでいた。

そんなわたしの胸に、まっすぐ、ズドン、と飛び込んできたのが、茨木のり子の「自分の感受性くらい」という詩だ。これを指針にして生きていけば、「真」というものにたどりつくかもしれない。当時この詩から一番に感じたのは、有無を言わさない強さだった。



「自分の感受性くらい」

ぱさぱさに乾いてゆく心を
ひとのせいにはするな
みずから水やりを怠っておいて

気難しくなってきたのを
友人のせいにはするな
しなやかさを失ったのはどちらなのか

苛立つのを
近親のせいにするな
なにもかも下手だったのはわたくし

初心消えかかるのを
暮らしのせいにはするな
そもそもが ひよわな志にすぎなかった

駄目なことの一切を
時代のせいにはするな
わずかに光る尊厳の放棄

自分の感受性ぐらい
自分で守れ
ばかものよ
--------------------------------
茨木のり子
詩集『自分の感受性くらい』(1977刊)所収 


最後の、「自分の感受性くらい / 自分で守れ / ばかものよ」という言葉は特に強く自分を律する言葉として印象に残った。 書き写したルーズリーフは八つ折りにし、表に黒々と「お約束」とマジックで書き、手帳に挟んだ。

やがて高校生になったわたしは、世界の広がりとともにキャパシティ・オーバーに陥る。「お約束」は重く厳しく、わたしは目を背けた。けれど、中学生の誓いはあまりにもピュアで、棘のように心に突き刺さって離れなかった。ルーズリーフは捨てられなかった。

そうして長い月日が流れ、20代も半ばになったある日、茨木のり子特集が組まれた雑誌を偶然手にした。そこにあったのが、次の詩だ。少し長いが、抜粋するには一語一語が愛おしく、こちらも全文を引用させてもらう。



「汲む―Y・Yに―」

大人になるというのは
すれっからしになるということだと
思い込んでいた少女の頃
立居振舞の美しい
発音の正確な
素敵な女の人と会いました
そのひとは私の背のびを見すかしたように
なにげない話に言いました

初々しさが大切なの
人に対しても世の中に対しても
人を人とも思わなくなったとき
堕落が始まるのね 堕ちてゆくのを
隠そうとしても 隠せなくなった人を何人も見ました

私はどきんとし
そして深く悟りました

大人になってもどぎまぎしたっていいんだな
ぎこちない挨拶 醜く赤くなる
失語症 なめらかでないしぐさ
子どもの悪態にさえ傷ついてしまう
頼りない生牡蠣のような感受性
それらを鍛える必要は少しもなかったのだな
年老いても咲きたての薔薇 柔らかく
外にむかってひらかれるのこそ難しい
あらゆる仕事
すべてのいい仕事の核には
震える弱いアンテナが隠されている きっと……
わたくしもかつてのあの人と同じぐらいの年になりました
たちかえり
今もときどきその意味を
ひっそり汲むことがあるのです
--------------------------------
茨木のり子
詩集『鎮魂歌』(1965刊)所収 


「初々しさが大切なの」「子どもの悪態にさえ傷ついてしまう / 頼りない生牡蠣のような感受性 / それらを鍛える必要は少しもなかったのだな」「すべてのいい仕事の核には / 震える弱いアンテナが隠されている きっと……」

自分の感受性を守るために、強くあらねば、頑健であらねば。世界に対して動じないある種の諦めを身につけて、傷つかないようにすることが感受性を守ることだ、と思っていたわたしは、とても驚いた。そして、「自分の感受性を守る」ということは、感受性を鈍らせることではなくて、弱くてもかまわない、ただ、その弱さを自分の意志として凛と身につけることを指すのだ、との解釈に至った。

さらに驚いたことに、「汲む」は39歳の、「自分の感受性くらい」は51歳の時の作品だという。その時系列を理解した時、「自分の感受性くらい / 自分で守れ / ばかものよ」というフレーズの「ばかものよ」という声の響きが、ガラリと変わった。

彼女は、自分の感受性を守ることもできないのか、と叱責しているのではない。「頼りない生牡蠣のような感受性」を携えて生きるのはなかなかに生きづらい。失敗もたくさんする、いち人間のわたし。やれやれ、わたしもあなたもばかものよね、とため息をつきつつも、でも、やっぱり頭を上げてこの感受性とともに生きていく。

正しいかどうかはわからない。でもそういうような、嘆息まじりの、人間に対する愛のこもった「ばかものよ」という響きに聞こえた。


「お約束」のルーズリーフは長年、「達成できなかったもの」という暗い色合いを帯びてわたしの気持ちを沈ませたけど、今はふわりとした優しい空気をまとって思い出の品を詰めた箱に入っている。

わたしは病気と診断されている。治るかもしれないし、治らないかもしれない。わからないけれど、どちらにしても、凛としていたいと思う。すぐ迷う。すぐめそめそする。そのたびに、このふたつの詩に立ち返ろう。何度でも。

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