飢えている"ひつじ"のわたし
大学院修士課程課題研究ゼミの原稿審査会にて(2011年11月30日) 。
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飢えている"ひつじ"のわたし
1.結論
今年度は修士論文を提出することができません。提出するには書かなければなりません。書くためには生活しなければなりません。生活とは、螺旋のようにひとつづきのものだと思います。今のわたしの生活はきれぎれで、膨大なエネルギーをつかって息たえだえに飛び移っている状態です。10/6の修論進捗状況発表会以後、「書く」ために与えられた時間を「生活する」基盤をつくるために使いきりました。何より書くためです。薄氷を渡るようですが、なんとか生活の見通しがたってきました。生活して、書いて、半年後に提出することを目指します。なぜ生活にこだわるのか。それはわたしが生活している人々から話を聞いてきたからです。
2.いったいなぜ書くことができないのか、なにが書かせないのか
わたしの現況を説明するとなると、「いったいどう伝えたらいいのか」という抵抗に加え、「いったいどんな現況なのか自分でも感知不能」なのです。一番のよき理解者にむかっても、 "ひつじ"という存在をまじえないとうまく自分の現況を説明できないのです。裏返せば、"ひつじ"という存在を登場させると説明することができます。ただ、この"ひつじ"は、わたしの思考の源泉におりますので、他人にも理解しよい説明言語では話してはくれません。
"ひつじ"は「めえ、めぇ」なきます。世間では"ゴミ屋敷"にくられるような場に生息しています。 "ひつじ"は、生きていることが怖くて文字通りなんにもしたくないのですが、ずっしりとした罪悪感と拭いようのない劣等感に苛まれています。すべてが怖いものですが、ひときわ怖いものは朝です。朝はおそろしくておそろしくて、目を開けられません。なぜはじめなければならないのでしょうか。消えてしまいたいのに。深夜は少し安心します。この時間帯に食べ物を買いにいきます。これが唯一の外に出るときです。たった3分の道中も、どきどき動悸がして帰路につくと袋をあけ、機械的に口の中につめこみます。味はよくわかりません。ただ歩くことさえ怖くて、食べていないと泣いてしまいそうです。急に走りだしたり、ひとりごとがとまらなくなったりします。コンビニしか利用できないので、お金が飛ぶようになくなります。
"ひつじ"が前面に出てくると、現実的な問題が多数発生します。朝起きられないということは、ゴミが出せません。大量のゴミにまみれて暮らすことになります。数種の虫が発生します。ゴキブリももちろんですがコメツキガ、コバエ、クモといった類です。特にコメツキガについては、卵期、幼虫期(イモムシ)、成虫期の各状態で大発生しました。コバエもいったいどこから湧いてきたのか、ゴミ袋の中で繁殖し、真っ暗な部屋の中で力サカサとした乾いた音がします。ゴミは分別しなければなりません。できないけれど、もう限界、虫を囲い込むためにとにかく袋の口をしめなければ。環境問題など大上段から「こうすべきああすべき」と軽く口にする浅はかさが身をつきさします。
他人の視線が気になって、ベランダすら開けられません。隣の家の話し声も、大家さんが朝決まって玄関先を掃き清める音も、わたしのことを責めているように聞こえてきます。洗濯物洗えない、お皿洗えない、お風呂入れない、本の雪崩、散乱する資料、虫虫虫。部屋の中にあるのは大事だと思って集めたものばかりなのに、何が大事なものだったのかわかりません。部屋のエントロピーは増加する一方です。小さな携帯電話など、どこにあるのかわかりません。充電コードが見つけられないときもあります。たまっているであろうメールや電話の記録が無言の圧迫をかけてきます。対応できない理由を説明できる自信も勇気もなく、わたしのことなんてみんな忘れてくれたらいいのにと思います。
ただ部屋にいるだけでもお金はかかります。家賃、高熱水道費、ガス代、携帯もインターネットも引き落とされていきます。学費の納入すらできません。大事な人たちが大物に貯めたお金を使っている感覚もなく浪費し、罪悪感はつのります。
布団はダニがいるようで、なんだかとても痒いのです。けれど、洗濯もできないし、そもそもベランダにさえ出られないのに、いったい何ができるというのでしょう。寝袋を引っ張り出しましたが流石に寒い。そうするうちに寝袋も汚れてゆきます。放っておいても髪の毛は抜けます。爪はのびます。垢はたまります。生きていることをどれだけ嫌っても、からだは代謝しているのです。自分の健康さに涙が出ます。部屋はますます混迷を深めます。水回りは悲劇です。水分は多くのものたちに命を与えます。玄関先にもそれらは広がっているので、呼び鈴をならされてもドアを開けられません。そんな自分が情けなくて、でも目の前に落ちているティッシュをゴミ袋へと放りこむことすらできません。
では"ひつじ"は何をするのでしょうか。ただ、ただただ眠るのです。学部時代の先生には、「人間はそんなに眠れるものだろうか。どうしても起きてしまって、本を読んだりするんじゃないのか」と言われましたが、人間はどれだけでも眠れます。そのかわり時間感覚はめちゃくちゃになります。睡眠時間に比例して復帰にかかる時間が長くなります。こわくてこわくて情けなくて悲しくて消えてしまいたくて今まで出会ったすべての人の記憶から消え去りたい。もしみんなが、わたしの大好きな、心から幸せを願っているみんなが、わたしを忘れてくれたら、もう思い残すことは何もない、すっと消えます。そんなことは不可能だということは百も承知です。でも繰り返し思う。でも無理なことだって、わかっています。どんなに消えたくても自殺はだめだということは譲れない。わたしが死んだ後始末をさせたくない。悲しませたいわけじゃない。どうしても、生き抜かなければなりません。
大学に行くときは死にものぐるいです。大学院生としてすべきこと、ゼミで果たすべき役割に鈍感なわけではありません。わかります。課題に取り組んで、期日を守って提出する積み重ねを経験にして・・・、ということをとても大事に生きていた時期があったのだから、わたし自身心底情けないのです。そういうことには段取りがいりますが、時間感覚がしょっちゅうずれるので、守れない計画しかたてられません。約束は破ることになる危険性が高いので、日時を設定することが怖くなります、
上に述べたようなことは、わたしの調子の「底」という場面です。この状況を他人に見せたことはありません。逆に「頂上」もあります。「頂上」のときは言い知れない幸福感に包まれます。人の営みを愛しく思います。好奇心も踊ります。特に調査地などにいくと"調査地ハイテンション"となります。調査地では特に問題なくコミュニケーションをとって、とても親切にしていただいて、わたしも心からありがたいなぁと思って、さぁこれをかたちにしようと強く思います。でも帰ってきたら倒れるように眠って、起きてみると"ひつじ"なのです。よく笑って、その時を十二分に過ごして、会話して、でも戻ればすべて嘘みたいです。調査地ごとに、「その笑顔を大事にしてね」 と言われますが、笑い方すらわからなくなってしまいます。メカニズムはよくわかりませんが、ひとついえるのはものすごく集中していることの反動なのかなということです。その集中は緊張と通じていて、ふっととけた瞬間ものすごく重大なことも一緒に忘れてしまったりすることもあります。わたしはフィールドに出るたびに人に嘘をついてまわっているのではないかと、ものすごく不安になります。帰ってから連絡がとれなくなります。だから、新たな場所にでていって新しく人と知り合うことが、自分の罪を増やすことのように感じられてしまいます。わたしのことを忘れて! と願う相手を増やしにいくようなものです。なぜか第一印象を良く受け取ってもらうことが多いので、後は嫌われるだけだという恐怖があります。
人間であることがやりきれません。石のような無機物になりたいとぼんやり夢想します。「生きる」という方向にまっしぐらな動物たちには、憧れと敬意に目が眩みます。その肉は七浦を潤し、その骨はマリンスノーとなって降りつもり、深海の暗黒の世界にくらす生物たちに栄養を供給する、クジラ。それはクジラがクジラの生活をひたむきに生きた結果なのだと考えると、厳かな気持ちになります。そのような生き方はできないものかと思います。
一度「頂上」に長時間いすぎて、眠らなくても平気になって、幻覚・幻聴を見聞きするようになってしまったことがあります。今、ここに多くの生命と共に生きていることが今まで無造作に散らばっていたものことが、ものすごいリアリティをもって迫ってきて、震えが止まりませんでした。こういう人が新興宗教の教祖になったりするのだろう、ととても怖かった。何が大事だったかわからなかったことが急に生き生きとつながりあいはじめて、その連鎖は連鎖をよんで、時間は加速します。神経過敏になり、情報がどっと入ってきすぎてすべてのコンテクストが見え隠して、頭がぼうっとります。「普段の生活」を病的にならずに営んでいくために人間がいかにキャッチする情報量をセーブしているかがわかります。安全装置なのだと思います。
大学のカウンセラーの先生にお世話になって、お医者さんを紹介してもらいました。2009年の3月からお薬を飲んでいます。長期フィルドワーク先でもカウンセラーの先生に薬を送ってもらっていました。お医者さんの診断では、わたしば"双極性障害のⅡ型"だそうです。
3.これからどうしようとしているのか
自分で自分の面倒くらい見られなくてどうするのだ。これでもなんとか中間報告を出そうと努力しました。ゴミを捨てるのに4週間かかっています。掃除機をかけました。台所を復旧させ自炊を再開しました。
生きなきゃいけない。なんとか寿命がくるまで生き延びなければならない。だから生き延びるためにいくつか仕掛けをつくっておかなければ。
長期フィルドワーク先でわたしは朝7時から15時半まで働いていました。無遅刻無欠勤でした。とにかく朝。朝起きることができたら、怖いことの半分はなくなる。でも従来の「自分のため」には起きることができない。だから日本でもう一度長期フィルドワーク先での状況を再現してみようと思います。働こう。ささやかな得手のコーヒーで、他人とつながろう。必要とされる自分を確認できる状態にしておこう。6時半から11時までのシフトのあるコーヒー屋のバイトを見つけてきました。
もちろん、修論に関係のないことを増やしてどうする、という思いはあります。渦中にいるときはまったく五里霧中なのですが、今考えると論文制作と自分の生活を切り離すことはできない、ということかもしれません。当たり前のこと。でも、ゴミも出せない茫然とした部屋の中で、人々の生活に関してなにやかにや論じる文章をかくなんて別次元のことのようでした。わたしはフィールドでまがりなりに7カ月生活し、〇〇が島の人々の生活の中にもこころの中にも生きづいていることを知りましたが、同時に島の人々の生活がまずあって、〇〇はその一部でしかないということを、身にしみて思い知りました。わたしの研究活動も同じだと思います。それはわたしの生活の一部でしかない。けれど、一部として頑として存在している。
このような、ある意味時間の無駄ともいえるようなことをお話ししければならない状況の前に、自分でなんとかしようとしましたが、袋小路でした。「説明するためにはわたしをさらけださなければならないけれど、こんなわけのわからない話されるほうが困るのではないか」「人にするような話ではない」「結局、一言で言うと、どうしようもなく馬鹿なのだ」いろいろ不安が去来し、うまく声が出なくて動機が激しくなったり、過呼吸になったりしました。
それでも、わたしは〇〇につながりたいのです。誰かがその研究を必要としのではなくて、わたしが〇〇につながりたいのです。
なにをさしおいてもまず△△先生。そして課題研究分野の先生方も巻き込んて、多大なるご迷惑をおかけしていることは自覚しています。不信感をもたれても当然のことで、もう迷惑をかけるばかりの不愉快な存在なのだから、やめてしまおうか、と悩みました。けれど、すべてが丸くおさまるようにも思えましたが、その次の瞬間、やめたらわたしは怖いことのつまった巨大な箱を、開けることも能わず、背負い続けることになる様が見えました。"調査地ハイテンション"であろうが、きっとその時あの人々と過ごした時間の中に、生きる源のようなきらきらした瞬間が確かにあったはずなのです。その瞬間を葬り去るなんて、できるはずがないのです。
ですから、ご迷惑を承知で、厚かましくお願いいたします。もう半年、ご指導いただけないでしょうか。人間であること・人間という存在を肯定できないと言いつつも、きっとわたしは人間として、人間とつながりたいと思っているのだと感ずるのです。そして人間として、〇〇につながりたいと思っているのだと感ずるのです。
この一種の飢餓感は、ひいては野生生物保護思想の源流のひとつとなっているのではないでしょうか。ならば、つながりたい、と思うわたしが介在した研究は成立するはずだと思います。時間は推奨コースよりかかるとしても。
以上、わたしの小文字でした。
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