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いまここにいるわたしの<俗>_博論日記(2023/09/10)

2024年2月1日予定の口頭試問まで、あと141日。

今日もバイトを終えて大学にやってきた。先週まではツクツクホウシやミンミンゼミの声がしていたが、今日はどちらも聞こえてこない。夏もいよいよ終わりだ。ただ秋の日差しになるまでにはまだ時が必要なようで、太陽は元気いっぱい照りつけてくる。もうしばらく残暑と付き合わなければならないようだ。

おかげさまで今週も調子をキープすることができ、とうとう論文を2本、雑誌に投稿することができた。論文で扱っているデータは2019〜2020年のものだし、文章の大筋は昨年できあがっていたことを考えると、投稿ボタンを押すまでにとんでもなく時間がかかった。本当に長かった……。
これからしばらくは雑誌側のターンで、1ヶ月程度の査読期間の後、コメントが帰ってくる。修正作業にはかなり手間がかかることが予想されるが、ひとまずその不安は棚に上げて、投稿できたことを喜ぼう。そして、書籍に寄せる原稿を仕上げてしまおうと思う。
投稿できるまで、まるで牧羊犬のように私を導いてくれたチューターさんには、心から感謝したい。崖の方へ行ってしまい、立ちすくんで自力では動けないというシーンが何度もあった。

今週も基本的にずっと作業をしていて散歩に行っていない。今日はお散歩報告の代わりに、ここ2ヶ月の間に少しずつ読み進めた2冊の新書からインスパイアされたことを書いてみたい。

いつも通学途中に読む用にと、新書もしくは文庫本を持ち歩いている。6月頃は千葉雅也(2022)『現代思想入門』熊野純彦(1999)『レヴィナス入門』を読んでいて、哲学系の本が続いていた。
ここ最近はというと、民俗学の入門書を2冊、カバンに入れていた。菊地暁(2022)『民俗学入門』と島村恭則(2020)『みんなの民俗学 ヴァナキュラーってなんだ?』である。今日ようやく読了した。

ちなみに、ヴァナキュラー(vernacular)とは何かを一旦説明してしまうと、ここでは<俗>を意味している。島村恭則氏によると、具体的には以下のことがらを指す。

ヴァナキュラー
①支配的権力になじまないもの
②啓蒙主義的な合理性では必ずしも割り切れないもの
③「普遍」「主流」「中心」とされる立場にはなじまないもの
④(支配的権力、啓蒙主義的合理性、普遍主義、主流・中心意識を成立基盤として構築される)公式的な制度からは距離があるもの

島村恭則(2020)『みんなの民俗学 ヴァナキュラーってなんだ?』pp. 30-31

「どちらの本がおすすめですか」と問われたら、両方を読むことをおすすめしたい。理由は「両方とも事例が豊富なので、2冊読むことで事例数が増え、より具体的に民俗学をイメージできるようになること」、「どちらも易しい言葉遣いだが、言葉の選び方は違うので、重層的に理解できるようになること」の2つである。どちらを先に読んでも構わないと思う。

おすすめの民俗学の入門書

2冊とも大変構成が練られていると感じた。
菊地さんは、暮らし・なりわい・つながりの三つの視点から民俗学を描き出していた。

はじめに ー 「せつなさ」と「しょうもなさ」を解きほぐす
序章 民俗学というガクモンが伝えたいこと
第一章 暮らしのアナトミー
 きる【衣】
 たべる【食】
 すむ【住】
第二章 なりわいのストラテジー
 はたらく【生産・生業】
 はこぶ【交通・運輸】
 とりかえる【交換・交易】
第三章 つながりのデザイン
 つどう1 血縁
 つどう2 地縁
 つどう3 社縁
終章 私(たち)が資料であるー民俗学の目的と方法
あとがき

菊地暁(2022)『民俗学入門』

対して島村さんは、身近なヴァナキュラーを具体的に記述したのち、ローカルとグローバルなヴァナキュラーに目を向けていた。

序章 ヴァナキュラーとは<俗>である
第一部 身近なヴァナキュラー
 第一章 知られざる「家庭の中のヴァナキュラー」
 第二章 キャンパスのヴァナキュラー
 第三章 働く人たちのヴァナキュラー
第二部 ローカルとグローバル
 第四章 喫茶店モーニング習慣の謎
 第五章 B級グルメはどこから来たか?
 第六章 水の上で暮らす人びと
 第七章  宗教的ヴァナキュラー
おわりに

島村恭則『みんなの民俗学 ヴァナキュラーってなんだ?』

さて、読了したわたしは「「いま、ここ、わたし」から出発できるのが民俗学」(菊地 2022:83)との言葉に触発されて、この「研究室のデスクに向かっているわたし」にヴァナキュラーな部分がないか探してみた(精神的なところではなく、わかりやすく物質的なものに限ってみた)。
すると、自分ではすっかり当たり前になっていて存在を意識することがなくなっていたものが、ヴァナキュラーとして浮かび上がってきた。しかも、宗教的ヴァナキュラーばかりだった。

① 財布の中に入っていたお札。
両親が1年ほど前に西国第三十二番札所である観音正寺に参拝した際にいただいてきた、疫病退散のお札。複数枚もらってきていて、1枚は玄関に貼られ、それ以外は家族一人ひとりに「お財布に入れなさい」と配られた。

観音正寺の疫病退散札

② 手帳の中に入っていたお守り2つ(トップ画)。
小さい方は大学院入学時に両親からもらった吉田神社の学業お守り。そして大きい方は、今はもう退官なさった先生が「博士号を取れるように。いろいろな困難を薙ぎ払えるように」と下さった熊野若王子神社の梛お守り。

吉田神社と熊野若王子神社のお守り

③デスクの隅にあったアオダイショウの抜け殻。
デスク右奥の小物をごちゃごちゃ置いているコーナーに、いつどこで拾ったかも忘れたアオダイショウの抜け殻があった。これはおそらく、綺麗だと思ったのに加えて、「縁起がいい」「持っていればお金がたまる」という俗信を信じて取っておいたのだと思う。

アオダイショウの抜け殻

④パワーストーンのブレスレット。
これに関しては存在を意識している。海外調査先でお世話になった先生の奥様がアクセサリー職人で、ご自宅にお邪魔した時に作ってくださった。月曜日生まれということをベースに、仕事運などいくつかの運を高めるような石の配置になっているそうだ。特にさらなる願掛けなどはしていないが「切れたら願いがきっと叶うから、切れるまで身に着け続けよう」と信じている。

パワーストーンのブレスレット

宗教的ヴァナキュラーとしては、寺社仏閣や墓地、自宅の神棚や仏壇、道端の大木や地蔵、石などが目立つが、そのような動かないもの(場)が起点となってそのもの(場)の持つ力を帯びたモビリティの高いもの、すなわちお札やお守りが作られたのだろう。これらは小さくて持ち歩きしやすく、次第に馴染んで日常に紛れ込んでいく。
ここにヘビの抜け殻という自然物が入っているのが興味深い。ヘビに対する人間の見方が反映されている。
今回見つけたものに関しては、ブレスレット以外、その存在を明確に意識していなかったので、自分がこんなにも宗教的ヴァナキュラーなものとともに過ごしていることにびっくりした。

今回投稿論文を書けた理由には、わたしが忘れていたこれらの宗教的ヴァナキュラーなものたちのパワーのおかげもあるのかもしれない。「うまくいくように」という願いのベクトルが自分の方へといくつも向かっていることを感じ、とてもありがたく、なむなむと手を合わせた。

<To Do>
・投稿論文:9月8日に投稿完了。査読待ち。
・分担書籍原稿:第2稿執筆中、14日に提出(30日締め切り)
・システマティック・レビュー:一次チェック作業終了 / 二次チェック作業用フォーマット作成
・博論本文:執筆(現状:43,175字)
・研究会発表原稿作成:アウトラインに情報を載せていく(本番10月14日)。


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