梶井基次郎著「冬の日」読書感想文
梶井基次郎の小説を数作しか読んでいませんが毎回良いなと思います。
作中の堯は病を持っていて、更にそれが人に伝染る病で、亡くなっていく過程も身近な人を通して知っています。
(引用)
俺が愛した部屋。
(中略)
がしかしそれも、脱ぎ棄てた宿屋の褞袍がいつしか自分自身の身体をそのなかに髣髴させて来る作用とわずかもちがったことはないではないか。あの無感覚な屋根瓦や窓硝子をこうしてじっと見ていると、俺はだんだん通行人のような心になって来る。
(中略)
早く電燈でも来ればよい。あの窓の磨硝子が黄色い灯を滲ませれば、与えられた生命に満足している人間を部屋のなかに、この通行人の心は想像するかもしれない。その幸福を信じる力が起こって来るかもしれない
(引用おわり)
堯は自分の部屋という抜け殻を見て自分を見つめられる。ああ俺の部屋は間違いなくここにあるのだと改めて感じ入り、発見するような新鮮さを感じながら、改めてその部屋にいる病の自分を眺めている。そして実際に部屋の中にいる時には、病の自分を見つめる自分が家の横の路に佇んでいるはずだ。柱時計の音が鳴るまでずっと。
(引用)
“俺はそんなときどうしても冷静になれない。冷静というものは無感動じゃなくて、俺にとっては感動だ。苦痛だ。しかし俺の生きる道は、その冷静で自分の肉体や自分の生活が滅びてゆくのを見ていることだ”
(引用おわり)
「冷静」でいなければならないのは、抜け殻に対してだけではない。
他人を通して見た生身の自分を、槿の根元に吐いた自分の血の赤色に対しても「冷静」でなければならない。苦痛なのは、病である事だけでなく、それを見つめ書くしかないということでもある。なぜなら対象物を見る目と、それを見る自分を俯瞰で見る目、それらを表す言葉を持っているからである。それは病を持つ事と同じで選べない事だ。今日沈み明日昇るであろう太陽ではなく今日の落日を、そしてその後の隠された太陽を切実に思い描かずにはいられない。
しばらく誰も来なかったことをひがむかと堯に向かってはっきりと問い、帰郷するための乗車割引券をさりげなく置いていく友人との場面が、爽やかな感じがして、堯の外側の世界を感じられて良かったです。
終わり
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