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秋のはじめのセンチメンタル

「切ない」という言葉を知るずっと前から、わたしはそれを知っていた。

両親と、わたしを含む3人の子どもたちが、同じ部屋で眠っていたころの話だ。

それはたいてい休日の朝にやってきた。

カーテンの閉じた薄暗い寝室で、いつもより朝寝坊な家族はまだみんな眠っていて、わたしだけが起きている。

生あたたかい寝息で満ちた静かな部屋の真ん中で、天井や洋服ダンスの溝をぼんやり眺めていると、お腹や胸のあたりがぼやぼやと、こそばゆいようなもどかしいような、なんとも言い難い心地がしてくるのだった。

寂しいようなかなしいような懐かしいような、けれどそのどれとも微妙に違った。それは、あまり心地の良いものではなかった。

無理に振り払うこともできなくて、足が攣ったときの痛みみたいに、ある一定の時間はそれが去るのを静かに待つしかなかった。

どちらにしても、家族がそれぞれ起き出して、日常が動き出しさえすればいつの間にかどこかに去ってしまうのだけど。

いったいこれはなんなんだろうと幼いわたしは不思議に思って、けれど上手く説明することなんてできないし、仮に説明できたとしても、誰かにわかってもらえるとは思えなかった。

なにがきっかけだったのか、切ないという言葉の意味を知ったときにはこれだ!と思った。

なんだ、ちゃんと名前があったのか。

その字面を見て、わたしは「切れない」という言葉を連想した。なるほど、どうにも割り切れないような、あのどうしようもない心情を表現するのにぴったりだ、と思った。

けれど大人になってから改めて語源を調べてみると、切ないの「切」には、心が切れるような想い、という意味があるらしく、わたしの解釈は間違っていたようだ。

ともかく、切なさは不意にやってくる。

卒業だとか別れとか、明確な理由がある場合は納得いくまで懐かしむなり泣く手もあるけど、でも、とくに理由がない場合はどうしようもない。

わたしの場合、春のはじめと秋のはじめと年末年始はだいたい切ない。

なまぬるい春の風、乾いた秋のにおい、煌びやかなイルミネーション、どこかしら厳かな元日の朝。

どれも嫌いなわけじゃない。心が切れてしまうほどでもない。けれどどうにも切なくなって、今年もまた、それが通り過ぎるのを静かに待ってる。

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