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「表参道のセレブ犬とカバーニャ要塞の野良犬」を読んで

noteを始めたきっかけはオードリー若林正恭さんの「表参道のセレブ犬とカバーニャ要塞の野良犬」を読んだことだった。

紀行文だと思って手に取った。コロナ禍で都内から外に出られない状況が続き、閉塞感を解消しようと思って書店で旅モノの本を数冊買った、そのうちの一冊だった。

でも内容は、想定と全く違っていた。記されているのはキューバ、モンゴル、アイスランドを訪れた時の旅の話だ。でもそれは旅日記の衣を借りた戦いの記録だった。若林さんが長く抱き続けてきた「生きにくさ」の正体を暴くための、戦いの旅路がそこにあった。

共感した、というレベルではなかった。誰にも明かしたことのない自分の思考が、そのまま活字になっていてびっくりした。この人は私だ、と思った。(個人の感想故、勝手な解釈をお許しいただきたい。)

私は健康で、生活を支える仕事もあり、家族とともに平和に暮らせている。でもその内面は社会の常識に自分を適合させることに必死だ。なぜこんなに一般常識に馴染めないのか、一般に言われる人としての幸せに共感できないのか、日々自分との対話を繰り返している。勝ち負けなんて関係ないと思いながら誰よりも勝敗を意識している。関心があるのは他者ではなく自分であることに、劣等感を抱き続けている。

若林さんはそれらを、今の日本の社会システムがどう構築されたか、という問いに端を発して理解していった。訪れた国々で出会った人、起きた出来事、感じ取った空気を日本と対比させることで、自分の力ではどうにもできない(誤解を恐れず言い換えれば、自分に責任はない)「社会」と、100%自分起因でつくりだされる「自己」の境界線を見つけ出した。

若林さんが抱き続けた違和感は、私のそれそのものだった。この違和感を抱くことそのものが自分の欠陥だと思い秘めてきたのに、同じことを考えながらいい大人になっている人が存在しているという、味方を得たような安堵感。この思考をそのまま活字にして晒す、その勇気。それらに私は救われた。

そして思った。日々の暮らしの中で人に明かすには憚られること、自己に閉じすぎた思考、それらを他者が見られる場所に表現することで、実はどこかで誰かが救われるのかもしれない。

ひとりの人間が人生で出会う人数は限られる。身を置く社会は世の中の一角だ。その小さな母数の中で自分がマイノリティだったからといって、世界においてもマイノリティだとは限らない。しかし、少数派に属するという意識は萎縮を生み表現することを阻み、顕在化しないままくすぶり続ける。大多数の人が気に留めないことだったとしても、「私」といういち個体が何か感じたのなら、それに共鳴する個体がどこかにきっといるのだろう。ひとりかもしれないし、届かないかもしれない。でも、表現すればいいのだと思った。表に出すだけで届く可能性はゼロではなくなる。

だから私はnoteを始めた。日記帳に殴り書きしているような些末で個人的なことを、公にしてしまおうと思った。つたなくていいし、プレビューが一桁だっていい。でもいつかどこかで誰かが読んで、「この人は、自分だ」と思い救済されるかもしれないという希望が動機になっている。(誰もが、つくり、つながり、とどけられるnoteというプラットフォームの存在意義を初めて理解できた気がした。)


ちなみにその後、同じく若林さんの著作「ナナメの夕暮れ」を読んだ。

この書籍は2018年に発行されたもので、前述の「表参道の…」文庫版よりも後に書かれた文章が含まれる。

若林さんは一歩大人になっていた。社会との不整合を自分の欠陥ではなくシンプルに「差」として受け容れ、自分なりの生き方の攻略方法を構築していた。なので私はあせった。「置いてかないでくれ」と思った。鬼滅の刃の無惨の最期くらいのテンションで思った。さみしかった。

話は飛ぶが、私は最近、俳優の成田凌さんが好きだ。ただ単純に顔が好きだ。そう思っていたら、最近のオードリーのオールナイトニッポン(ラジオ番組)で若林さんが「成田凌が好きだ。かっこいいと思う。」と言っていた。

心的な依存度が上がっていたことに加え、シンクロ率の高さに少し気味が悪くなり、ちょっとこの人とは距離を置こうと思った。

私も自立しなくてはいけない。自分を晒しながら、私なりの社会で生きる攻略方法を見つけないとな、と思っている。


※2021年10月24日改題しました。

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