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絶望するにはまだ早い。理想を見直すこと。

私は許せなかった。白いドレスを完璧に着こなせないことを。


5歳のとき、親戚の結婚式に出ることになった。

母はその日のために、子ども用のドレスを買った。ふんわりとしたスリーブとレースが重なったスカートに淡いピンクの花が舞っている、お姫様のようなドレス。妹とおそろいだった。

でも私は知っていた。自分の肌が少しだけ周りの人よりも黒いこと。真っ黒な髪と、真っ黒な瞳。自分が、日本昔話に出てくるような日本の童そのものであることを知っていた。

お姫様のドレスは、雪のような肌と青い目にこそ似合う。日本の童が来ても仕上がらない。

私はそのドレスの着用を断固拒否した。暴れて泣いて嫌がった。結局結婚式には着ていったけれど、どの写真も1ミリも笑っていない。

私には兄もいて、ヒーローごっこを一緒にするようなわんぱく娘だったので、「女の子っぽいものが嫌い」だと解釈されていた。

違うのです。「仕上がらない」ことが気に入らなかった。理想高き5歳児。


「似合う」には少なくとも2種類あると思う。

誰もが憧れお手本にしたいと思う「統一感のある似合う」と、その人がよりその人らしく見える「違和感が魅力になる似合う」。

私は長い間、知らずに前者にとらわれていた。晴れ着にもウェディングドレスにも心を躍らせることができなかったし、「好き」と「似合う」は別物だと、どこか諦めながら服を選んで生きてきた。

でもそうではない。

着たいものを選んでから、自分らしい「似合う」を探せばいい。「自分らしいとは何ぞ」などと悩まずとも、合わせる小物や髪形やメイクで総合的な統一感は出せる。「似合う」はコントロールできるものだ。統一感だけが正解でもなく、むしろあえて違和感を出し、そのコントラストを楽しむことが粋ですらある。そう考えられるようになってから、随分と着るものに対する気持ちが自由になった。


5歳の私は本当は、お姫様になりたかった。白いドレスを完璧に、可愛く着こなしたくて、でもそれが叶わないと思い絶望していた。小さな理想の範疇で。

自分が考える「理想」に届かないものがあるとき。その「理想」は正しいか、見方の違う「理想」がないか、少し気に留めるとよいのかもしれない。

絶望するにはまだ早い。


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