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私の日記をリカバリーの物語として読む⑩入院初期(1~9日目) リハビリ
相変わらず病名はつきませんでした。いよいよこの病院も、これまでの病院と同じように「原因不明」という結論を出すのではないか、と私は疑い始めていました。それで医師に、病名がつくのを待たずにリハビリを始めたいと、頼んだのでした。
後に気づくことになりますが、このリハビリが、私にとって大きな転換点になりました。それは、体の回復によってではありません。病気への向き合い方や、病気を内に持ちながら生きていく時の考え方を教わったからでした。
🔷 モチーフ 🔷
「リハビリ」
・入院すればすぐに検査で病名がつくと思っていました。でも、一週間経っても病名が付く様子は全くありません。検査の頻度も低くなってきました。見通しを聞くと、医師が嫌な顔で「時間がかかるものなのです」と言います。その様子に、策がなくお手上げ状態になりつつあるのだろうなと感じました。
・入院後三日目くらいまでは全身が重く、途切れながら浅い眠りをずっと続けていました。しかし、四日目あたりから、重い掛け布団の中で危機感を感じ始めました。その危機感というのは「このままだと本当に病人になってしまう。病人にされてしまうのかもしれない」というものでした。
・実際には、私はすでに病人です。でもそれ以上に、このままだと、自分でコントロールができない寝たきりの体になってしまうのではないか、そう思ったのです。
筋肉が固くなり、体が自由に動かせなくなりつつありました。以前は胸が腿についた前屈が、今は指先がつま先にも届きません。
私の病気は足から腰までだけのはずです。でも、首も肩も腕も動かしにくくなっています。それは多分、病気のせいではなくて、動かさないからなのです。このままでは全身が動かなくなる。そして、病院はその責任を取ってはくれないだろう、と思いました。
・一日に一つか二つの検査をするだけの毎日です。特に異常が見つからなければ放置されて、また翌日に新たな検査、の繰り返しです。病院のスケジュールに合わせて、できる検査を順にやっていく。いつか何か見つかればいいし、何も見つからないかもしれない。
・医師の、というか病院の、「私」に対する関心のなさがかいま見えます。私がたくさんの患者の中の一人であることはわかっています。それ以上に、本気で早く私の病気を究明しようとは思ってくれていないと感じました。医療機関の限界が何となく見えてきていました。同じことを、入院前のいくつもの医療機関での無駄な通院検査で、私は既に経験していました。
・そんな気持ちの動きの中で、入院4日目に「ベッド上でストレッチを始めたい」と、回診に来たドクターに申し出ました。医師は、「原因や病名がわからないとリハを始めてはいけないということはないので、特に構いません」と、少し困った顔で答えました。
・医師の言葉は、積極的な「リハビリをしましょう」ではありませんでした。病名が明らかにならない期間が長くなりつつありました。それで、目先を変えることでお茶を濁された感もありました。
・私は、病室の他の患者の迷惑にならない時間を選んで、フレームがギシギシいう冷たい金属枠のベッドの上で、ストレッチを始めました。かなりうるさいため、隣りの人が検査等でベッドを開けている時を見計らってやっていました。ベッド上なので動作は小さくして、ほんの短時間だけ、前屈や腕や肩のストレッチを始めました。転倒するため、ベッドから降りて立つことはまだ禁止されていました。
・いつも医師が回診に来た時に、私がベッドをギシギシガタガタいわせながら体を動かしているので、ドクターが見かねたのでしょうか。担当医にしてみれば、偉い先生の前で、病名がわからないのにストレッチをしているおかしな患者は、迷惑な存在だったかもしれません。入院8日目に、私はリハビリ室での本当のリハビリを許可されました。
・今思えば、私の入院の長期化や、原因がわからない状態での症状の慢性化が、すでに予想されていたのかもしれません。また、看護師から医師に、私が「気分が沈みがちである」「夜遅くまで眠れずにいる」等と、申し送られていたのかもしれません。私は入院前から夜更かしでしたが、入院してからは昼間に昏々と眠るため、夜は眠くなりませんでした。気分は晴れませんでしたが、「沈む」というよりは、書いたり考え込んだりしている時間が長かったように思います。
・いよいよ病名不明のままリハビリで状態を多少改善して、退院を促されるのかもしれないなと、私は思いました。不信感とともに、すでに諦めつつもありました。いま、他に手立てはありません。ベッド上の運動に不便も感じていました。それで、私は喜んでリハビリを承諾しました。効果はわかりませんでしたが、「やることを手に入れた」そんな気がしました。
・入院8日目にリハビリ室に行くように言われ、主治医とは別の、リハビリ担当の冷たい感じの女性医師に、簡単なリハビリ計画書を作ってもらいました。女医は、なぜか不満げな態度でした。怒ったような口調でいくつかの質問をされました。もしかすると、私の症状では、この段階でのリハビリは一般的ではなかったのかもしれません。計画書の「感覚入力、筋力維持」「随時検討」という単語に、方向性が定まらない感じが表れていると思います。
・翌日、9日目から、リハビリ室でのリハビリが始まりました。
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調べてみると、日本では2000年前後から、「早期離床を促し廃用性症候群や二次合併症を予防するために、ベッドサイドリハビリが有効」と言われ始めたようです。2005年頃に徐々に拡大し、2015年頃には、各科でのベッドサイドリハは常識的になっています。
後に、私が心筋梗塞で救急搬送されカテーテル手術をした際にも、CCU(冠疾患(特に心臓血管系疾患)集中治療室)から一般病棟に移ると、その日の内に、ベッドサイドに理学療法士が来て、リハビリが始まりました。一週間横になっていた私が、点滴と心電図モニターをつけたまま、いきなり立って歩かされるのです。立つだけでめまいがしました。
私が難病で入院した2008年は、ベッドサイドリハ普及の途上にあったはずですが、私がいた神経内科では一般的ではなかったのか、病院によるベッドサイドリハは行われませんでした。
「リハビリ室でのリハ」
・リハビリ室のリハでは、壊れた神経の修復や治癒を目指すのではありません。体の別の機能を代わりに使って必要な動作を行う訓練を行いました。これを「代償機能」と呼ぶのを後に知りました。
・以下の文章が具体的でわかりやすいため、引用します。
初めてリハビリ室に行くと、三十代半ばくらいの、時任三郎に似た理学療法士(PT)が担当でした。
彼に最初に言われたのは、次のようなことです。「感覚がマヒしていて、足の感覚がないんだって?まあ、それは仕方がないやね。脳や神経のどこかが損傷を受けているから感覚がないんだと思うよ。もし神経なら、壊れた神経は修復しないから、足の感覚が元どおりに治る訳ることはないはず。でも、それでいいんじゃない。ここではそれを前提にスタートしよう」
そしてまず、立ってみるように言われました。私は「無理です」と答えました。入院して以来毎日、ベッドサイドで、回診やインターンなどのたくさんの人の前で立つように言われて、バランスを崩し「ダメだね」と言われ続けてきました。人前で出来なさを晒されてきたのです。立てないことを確認されるのは、もう嫌でした。そもそも、私は自分の足があることを感じられないのだから。
それでも、PTは「倒れてもいいから立ってみようよ」と言うのです。私は憮然としながら、言われたとおり、平行棒につかまって、震える腕で全体重を支えるようにして、ゆっくり立ち上がりました。
「じゃあ、歩いてごらん」「無理です。接地している感じがないからそれは無理」泣きそうになりながら、私は言いました。この人は私のことを何もわかっていないんだよ。何カ月もかけて歩けなくなっている体が、今、突然動く訳がない。もう、できないことをするのは嫌、人前で無様な足を運びを見せたり、つまづいて転んだりするのは、もう嫌なのです。
「両手で体を支えていてもいいから、大きく足を踏み鳴らしてごらん」
仕方なく、私は自由に動かない足で、不器用なステップでゆっくりと床を踏みました。
「足あるの、わかる?」
確かに私の足がある…。
この数週間、あるのがわからなかった足が、体の下にありました。
これは骨盤の骨伝導を使って、機能している神経で、足を感じているのだとのこと。そう、私のリハビリは、マヒした足の感覚を使わずに、体の別の機能を使って、足の存在や動きを脳に再学習させる、というものでした。
この後、PTは姿見鏡を持ってきて私の前に置き、自分の足を見ながら同じように足を踏み鳴らすように、そして踏み出すように言いました。足の存在、足が前に振り出される様子、体重を乗せた時の体の傾き等を、視覚を通して脳に再学習させるのです。
🔷 物語の「筋」として見る 🔷
・この時にはまだ気づいていませんでした。今になって振り返ると、「リハビリで自分の足を感じられた瞬間」が、大きな転換点だったのかもしれません。
・自由には動かせない足を、ぎこちない動作でゆっくり踵から下ろした時に、腿と骨盤に感じた鈍い遠い振動。すべての音が消え、私の気持ちは体だけを見ていました。
・内から込み上げる涙の感情は、日記にあるように「歩けたからではない」「回復の兆しがあったからではない」のです。数か月間見失っていた自分の足があることを確かめた瞬間に、自分の体を取り戻せたと直感できたからだと思います。
・この体感の中で、自分の足を「病気に侵された言うことをきかないヤツ」ではなく、「愛おしむ私の体」として受け容れるようになりました。バラバラだった私の体がひとつになった時に、病気に対して受け身ではなく、正面から向き合う覚悟が生まれたのだと思います。
・私はこの時のことを、日記に次のように書いていました。
足が、私の足が、そこにあった。
涙がこぼれる寸前だった。
オレの足、まだ生きてると思った。歩けたからではない。回復の兆しがあったからではない。自分の体にもまだ力が残されていたことが嬉しかった。無くなっちまったような、他人様の物のような足が、「確かにここにいるよ」と、「まだ生きてるよ」と言ってるようで嬉しかったんだ。
でも、泣きたくはなかった。泣いてごまかしてしまいたくない大切な感覚だった。
ベンチに集う患者たちやナースにも話したかったけど、この小さい、ほんとに小さい大切なものが、伝わらない気がしたし、話すことで失いたくなかった。理解されないことで、その輝きを曇らせたくなかった。だから、誰にも話さなかった。
・入院中のほとんどの出来事は「受け身」です。検査、服薬、治療、手術等は受け身で、そのあとは回復をじっと待つことになります。この時間は、見通しがないので、長く長く感じられます。
・そんな中で、リハビリは数少ない「能動的な行為」でした。
・リハビリでは、私の病前のキャラクター「努力で何とかする」という方法が、たまたま活かせたのだと思います。
・病気の治療のプロセスでは、私にとってのリハビリのような「転換点」が見出せることが、よくあるのではないでしょうか。一瞬の出来事で、その後の道筋を確信する瞬間が。
・最初の入院から約十年後、心筋梗塞の入院の時にも、同じように大きな転換点がありました。入院中に点滴につながれ、予後がまったく見えずにいました。「点滴はどうやったら終わりにできるのですか?」と看護師に訊きました。すると「口からご飯が食べられれば当然外れるでしょう」と豪快に笑われたましたが、私が「なるほど」と気づいた瞬間でした。一瞬でその後の道筋に確信が持てたのです。食べればいいのか、と。気持ちと体がまさに「V字回復」した出来事でした。
・このように、患者や障害者には、本来の疾病等からの回復とは別の、気持ちが前向きになる出来事や言葉等があるのではないかと考えます。例えば、初めて洗髪を許されて、洗面台で髪を洗って顔を上げて鏡を見た瞬間。売店で髭剃りを買ってきてもらって、ゆっくりと伸び切った太いひげを剃り落した瞬間。ドロドロのお粥と一緒に出てきた具がないみそ汁を「おいしい…」と感じて涙が流れた瞬間。顔を見たことがない隣りのベッドの患者からの、カーテン越しの励ましの一言。
・私の場合、まだこの時点で不調の原因は明らかになってません。病名が付いていないため、治療は何も始まっていません。でも、一方で気持ちだけは前向きになっているのです。
気持ちは「回復」とは別に動くのだろうな、と思います。
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●あとがき
リハビリという私にとっての最初の転換点までの「9日間」を、入院初期として書いてきました。
次回はこの期間の物語をもう少し読み解いてみます。それから、入院中期~後期へと進めていきます。
今回も最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
文・写真:©青海 陽2023
🌼 次回の更新は 2023年11月10日㈮です 🌼
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