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私の日記をリカバリーの物語として読む⑧ 入院初期(1~9日目)いい子の患者さん

私の入院中の日記を、リカバリーの物語として読んでみる話の続きです。
この連載を書こうと思ったのは、私がどん底からどうやって這い上がってきたのかを、振り返って確かめたかったからです。
あまりにも激しい体験だったため、私の中ではこの時期の記憶があいまいになっています。また、怖かった体験を振り返らずに前だけを見て進もうとして、この頃の記憶を意識的に封印したのだと思います。
十五年経った今、やっと振り返ることができるようになったのかもしれません。

そして、あの体験の中には、大切な私らしさや、私がこれから先を生き抜くためのヒントがあるのではないかと感じるのです。
それで、前回からは、入院初期の日記で何度も登場するフレーズや風景、気持ちの動きなどを、「モチーフ」として抽出しています。
その先にはこれらのモチーフが絡まり、大きなうねりとなって私の物語の主題を形作っていくのではないかと思います。

🔷 モチーフ 🔷

「甘えてはいけない」「いい子の患者さん」「自尊心」「傷つくのが怖い」「無意識に不安を抑圧」「気持ちを見ないようにする」

・私は入院中、いつも無意識にこのような気持ちを持ち続けていたのかもしれない、今回書いていて、このことに気づきました。子供の頃から身につけてきた我慢する性格が、入院という特殊な環境の中で、浮き彫りになったのかもしれません。

●かつて、いい子だった私
私は「いい子」だったと思います。特に母に対して、優等生のようにいい子に振舞ってきたと思います。ずっと、期待に応えようとしてきました。

弟が生まれたのは小学校二年生の時でしたので、それまでは一人っ子として育ってきました。私は「内気」「気が弱い」とよく云われる子でした。台所で母の足元で遊んでいた記憶があり、「お母さん子」だったと思います。
母がよく言っていたのは、「人前で欲望を見せるな」という意味のことでした。それは恥ずかしいこと、そう教えられてきました。それで、私は人前であまり笑わないようにしていましたし、笑った顔は醜いと、無意識に思っていました。だから、かなり長い間、実は大人になってからもしばらくの間、上手に笑うことができませんでした。今も無心に笑えるのは稀かもしれません。役割として、演技して笑っていることが多いのです。いずれの場合も、笑いながら、今私笑ってるな、と意識しています。

母の教えは規範的なことが多かった印象があります。「私」を主語にした言葉ではなく、「〜であるべき」のような主語のない言葉が多かったと思います。それが、何か私の心の中に満たされない空洞を作っていたように、何となく感じます。
受け止めてもらってはいなかったのではないか?母は子どもがあまり好きではなかったのか?母は子どもにどう接していいのかわからず、戸惑っていたのか?私は望まない子どもだったのではないのか?私の記憶がそのような印象に書き換えられてしまっているだけで、実際は違うのかもしれません。でも、抱きしめ、受け止めらもらった記憶が、あまり残っていないのです。

そんな私にとって、弟が生まれたのは大きな出来事でした。私は弟が大好きでしたし、今までもずっと仲良くしています。大きく変わったのは、私に「お兄ちゃんとしてこうあるべき」という新たな規範が加わったことでした。
これを象徴するような出来事がありました。私は生まれつき眼瞼下垂でまぶたの筋肉が麻痺しており、右目を大きくは見開けません。小学校の一年生から二年生の頃、通学途上で上級生に取り囲まれて、目のことをからかわれる日が続いていました。ある日、我慢できずに、母に泣きながらことのことを訴えました。私が期待していたのは、ギュッと抱きしめてもらうことだったと思います。でも母は言いました「体のことをからかうのは、その人達が間違っている」「そんなことでくじけるような弱虫でどうするの」と。

この時に、何かを諦めた気がします。甘えるのをやめよう、期待するのをやめようと。
母との関係を壊すのは嫌でしたので、私は期待に応えられるよう、勉強もしましたし優等生として過ごしていました。少なくとも高校卒業くらいまではそうしていました。

高校三年の頃、母には理解されない友達ができました。母は「そんな人とは付き合わない方がいい」と言いましたが、私は、その友達の抱えている苦しみや葛藤がわかりました。その時に、私と母との間には相容れない部分があり、私が自己主張することで母を傷つけてしまうと思いました。それで、高校を卒業してすぐに、実家を出ることにしました。

こんなふうにして、私は感情を露わにせず、黙って我慢するようになりました。
仕事の苦境も、我慢して乗り越えようとしてきましたし、発症してからも、ずっと耐える日々を送っていました。

・病気の進行、未知の治療、医療という環境も、全部が怖かったはずです。怖いのは当然だと思います。でも、怖いと自分で認めてしまった時に、奈落の底に落ちて戻って来られないと感じていました。
・怖さから目をそらして、本当に気持ちが底まで落ちませんでした。このことについて「良かったのだろうか?」という気持ちを、後に持ち続けることになります。というのも、我慢した感情は、消えてなくなったわけではなくて、抑圧されて気持ちの底にずっと残り続けていたはずです。この抑圧をどうするのか、私の中にはこの課題が、後々までずっと残されることになりました。

・また、その気持ちを誰かに伝えて良いものなのか、誰に伝えたら良いのかを、見出せずにいました。「「辛い」と気持ちを口にしたい」「甘えて泣きたい」というのが本心だったと思います。この気持ちのやり場をどうしたらよいのか?そもそも自分で何とかするものではないのか?と思い続けています。人に甘えてはいけないだけでなく、甘えて期待を裏切られた時に自尊心が傷つくのが怖いとも感じていました。
・入院中は、気持ちを我慢し続けたように思います。気持ちの一部は、他の患者と分け合うことで軽くできていたかもしれません。そして退院後にやっと、少しずつ人に伝えられるようになりました。
・ここに書いているのも、そんな気持ちを吐露して昇華していく行為なのかもしれません。
・看護師に期待して辛い気持ちを伝えてもいいのか、という葛藤もありました。私は看護師に、少しだけ言葉にして伝えてみています。看護師の戸惑いを見て、やはり違うんだと思って、その言葉を引っ込めています。
このことについて、私は次のような言葉を日記に書いています。

病院に来て3日目の夜。まだがんばれている。ほんとうは辛いのかもしれないなって一瞬思う時がある。自分しか頼るものがないから気を張っているのかな。本当に崩れてしまったら、誰も引き上げはくれない。看護婦さんに泣きごと言っても、多分受け止めてはくれるだろうけど、でも何か違う気がする。限りなく気持ちを依存してしまいそうで、自分の足でちゃんと立とうってずっと思い続けているんだきっと。甘えてはいけないと思っている。私はいい子の患者さんだと思う。

3月28日(入院3日目)の日記より

若い看護婦に、トイレの時にそのことを話した。この間、入浴の時に恥ずかしいと言ったら戸惑っていた看護婦。患者の辛いという気持ちは余りにも重いよね。また、少し戸惑って、「なるほど…」と言って困った笑いを浮かべる。逆に申し訳なくなってしまい、「ごめんなさい」と、私から笑って話を切り上げた。

3月31日(入院6日目)の日記より

では、不安や辛さがないかというと、それも嘘だと思う。はっきりと意識はしていないが、やっぱり歩けなくなること、治らないことが怖くて、でも一人きりで本当に辛くなってしまったら、持ち直せないことも想像がつくので、鼻歌を歌ってごまかすように、気持ちを前向きに持とうとしている。

4月3日(入院9日目)の日記より

入院してすぐに看護婦に甘えたかったのも、本当は辛かったからだろう。辛くて、怖くていいんじゃないか、とも思っているが、そこが私の自尊心であり、固い所だと思う。この状況下では、無防備にはなれない。看護婦に対し無防備になった時に、自分は余りにも弱いし、弱い立場にいるから、立ち直れないほどに傷つく。それが本当は一番怖いんだ。

4月3日(入院9日目)の日記より

何人もの味方に支えられながら、弱っている私には、やっぱり味方が必要で、時に甘えられる人や、いつでも甘えられるという気持ちの支えが必要なんだと思う。そして、見守っていてくれる人がいるから、今日も気持ちをしっかりと保ているんだと思う。

4月3日(入院9日目)の日記より


「看護師」
看護師とは、この後さまざまな形で交流し、支えてもらうことになります。このことについては、入院中期の記事に書きたいと思います。



文・写真:©青海 陽2023

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青海 陽
読んでいただき、ありがとうございます!☺ かつての私のように途方に暮れている難病や心筋梗塞の人の道しるべになればと、書き始めました。 始めたら、闘病記のほかにも書きたいことがたくさん生まれてきました。 「マガジン」から入ると、テーマ別に読めます(ぜんぶ無料です)🍀