ぼくはずっと普通だった①
ぼくは中学、高校とバドミントン部だった。小学校の頃に親にサッカーをやりたいと頼んだが、断られ続けた。結局小学校の6年間は親に入れられた水泳だけをやっていた。最後の方は楽しくなくて楽しくなくて絶望だった。
仲のいいともだちと共に
そんなぼくが小学校を卒業して、中学に入学。ザーザーの雨の中、親とともに道を間違えて遅刻しかけたのも懐かしい思い出だ。中学に入ったら親に言われていたし、自分の意思もあって運動部なにかしらに入ろうとした。
小学校の頃、続けていた水泳部はないし、自分が運動の中でも得意と感じていたハードル走をしたかったけど、陸上部もない。サッカーをしたい…と少し思ったが、ぼくは小学校時代をサッカーには使えなかったこともあって、非常に抵抗を感じた。
「サッカーをやっている人なんてたくさんいるのだから、負けるに決まっている」そう感じたからだ。そこで目をつけたのがバドミントン部だった。バドミントンは小学校で触れている人も少ないしスタート地点が同じだろうと。
たまたま、小学校から仲の良いともだちが行くと聞いていたから体験入部をしてみることに。
うちのバドミントン部はなぜか人気が高かった。これは入部後に聞いた話なのだが、うちのバドミントン部は体験入部がめちゃめちゃにキツイと噂されていたらしい。
初日25人くらいいた体験入部がみるみる減った。ぼくはキツイと嘆きながら続けた。一緒に行ったともだちはいなくなったけど、家が近くて仲の良いともだちと通い続けた。シャトルを打つあの音が忘れられなかった。
そうしてぼくはバドミントン部に入部した。
才覚
地獄の体験入部を終えて本入部したのはぼくを含めて10人だったと思う。ぼくの比較的仲の良いともだち8人+別の小学校の2人。
体験入部が異様にキツイの時点で、気づく人もいただろうが、顧問の先生は社会人バドミントンでも結構強い人(と聞かされている)で、3年生はここ数年のうちの中学では最強クラスの代として名高かった。しかし、中学時代では県大会止まりで花開かず。高校では県最強クラスのダブルスになっていた。
しかし、2年生は怠け癖のある人が多くて、スキあらばサボる。手を抜くのが基本で、上手くても練習に来ない人もいた。
先輩たちがサボる中、ぼくたちの代は真面目っぽく練習を重ねてぼくともうひとり、Iくんは先に花開いた。なんと秋の大会で先輩たちを差し置いて選手に選ばれたのだ。
当時は実力で抜けたように勝手に思っていたが、多分そういうわけではなく、練習態度がいい中で今後のことを考えて出してもらえたんだろう。
1年生の中でぼくともう1人選ばれたIくんは近くのバドミントンスクールに通っていた。上手くなるのが早いのは当然だろう。逆にスクールに通わず選ばれたぼくは自分がひとつ違う"才覚"があると思っていた。
運動センスだけでいうなら僕のほうが圧倒的に上なはずなのに、Iくんは選手となった。それを考えるとIくんと同じスクールに通いたくてしょうがなかった。
上手くなることがひたすらに楽しかった。親はそれを許してくれなかった。お金がかかるからしょうがないとは思う。だけど、今思うと両親ともに部活や運動、その他活動に真面目に取り組んだこともなく、負けず嫌いな節も感じないことからそもそもぼくに共感できなかったのかもしれない。
ぼくは出場した秋の大会は、3年生が引退した後初めての大会。つまりシードが安定していない大会だった。ぼくはその大会でベスト4になったいわゆるダークホースとあたった。そしてもちろんボロボロに負けた。
でもその人に「君はヘアピンが上手かった」と褒められた。今考えると、ほかはダメダメすぎる中、ヘアピンが少し上手かったくらいのことだったのかもしれない。それでもぼくはとても嬉しかった。
冬へ
飛んで冬の大会。ぼくは選手から脱落した。その大会で出たのは、Iくんとその後中学1強いダブルスになるコンビ(以下1ダブ)だった。Iくんは間違いなく出場していいレベルに到達していた。
ぼくはIくんに劣っていた。これを「スクールに通わせてくれなかったからだ」と環境のせいにしてしまった。ぼくの逃げ人生はここで既にはじまっていたのかもしれない。
選手としては出場できなかったが、希望はあった。1年生の中でダブルスの検討も始まった。1年生内では2番手のダブルス(部内だと5番手くらい)にはなっていた。
中学バドミントンのチーム戦は2複1単(ダブルス2つとシングル1つ)で行われる。この段階では、僕たちの代はおそらくシングルのIくん、1ダブ、そしてぼく+Nくんのコンビが主力ですすんでいくはずだった。
大会に出られなかったことだけでなく、もうひとつ難を迎えることとなる。