エッセイ|いつの間にか私たちはシーソーのように。
久々に「おじさんエッセイ」を書こうと思い少し書いたところで、新たなおじさんエピソードが舞い込んできてしまい、困っている。
そういうわけだから、本当に書きたいエピソードは今度にして、最近の出来事に絡めておじさんを紹介する。
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現在、うたすと2というイベントをしていて、私は課題曲の作詞をした。作詞は初めてだったけれど、ご縁をいただき、結果としてとても有難い経験をさせていただいている。
このことを、私は早くおじさんに知らせたいと思っていた。なぜならおじさんは、小説を書きつつ、昔から作詞も手がけてきた人なのだ。
おじさんは、人から頼まれたり頼まれなかったりしながら、いくつかの詞を友人たちに捧げてきた。それはある旅館のイメージソングになったり、スナックの周年祝いソングになっていたりする。
私自身が作詞に挑戦したことで、おじさんとの共通点がまた一つ増えたことは喜ばしく、それを手紙で伝える際、「私とおじさんは本当に父娘のようですね」と書いたら、その返事に「(青豆さん)ご自身でも感じておられるように、私も、青豆さんに似ている処、多々と思っています」と返ってきた。
おじさんもこんな風に、消したり書いたりしながら詩をつけたのだろうか、などと思いながら、久々におじさんが書いた詩を読んでみようと、ファイルの中身を漁っていた。すると、だいぶ前におじさんが、自慢話の一つとして送ってきた新聞のコピーが出てきた。そこには、第〇〇回直木賞受賞者の名前と写真が載っている。おじさんの苗字と同じおじさんが映っている。
その上には、おじさんが書き足した文章があり、こう書かれている。
おじさんは最近の手紙で、なんでもないことのように私に「小説をもう書いていない」と言った。二年前は午前一時に目覚め、まだ外が暗いうちから執筆していると言っていたのに。いつの間にかおじさんの人生から大切なものが引き算されていく。
このことは私からするといくらかは寂しい。だけど、一つ手放すごとにおじさんはさらに軽やかに毎日を謳歌している。時折送られてくるおじさんの使い古したあれやこれを眺めながら、そんなことを思った。
そんな中、昨日送られてきたのはフルートだった。
数ヶ月前に、大学生に講師を頼んでいると言って楽しみにしていたのに、結局現実にならなかったらしい。そんなあ、と悲しくなる。だけど、おじさんは「これも人生」と受け入れている。
そして、「手に取らなくても持っていてくれればいい」と重たい言葉を私に残す。自分は身軽になり、私に重たいものを残す。許せない(笑)
おじさんが今後身軽になりすぎて、羽を生やして飛んでいかないように、私はおじさんがこの世に残っていたくなるような嬉しい知らせをたくさん届けたい。特におじさんが喜ぶのは、いい学校を出たとか、どんな成績を収めたとか、美人になったとか、そういうことなのだ。そのへんのものさしは随分とさびれているなと内心微妙な感情を抱きながらも、ここまで生きて毎日楽しく過ごしているのだから、もう好きにして欲しい。
そうして私がおじさんの手紙に書くことも、いくらか自慢話のオンパレードになっていくのだ。おじさんのためとはいえ、やっぱり私たちは似ている。
八十歳のおじさんに、いまの私は様々な思いを持って接しているけれど、改めて思えば、私の両親も今年七十をこえた。次にいつ会うかわからない両親がおじさんより先に逝くことも十分に有り得るのだ。そして次にいつ会うのかを決めるのは、他の誰でもなく私なのだろう。おじさんのように、一年先の予定を決めて動いてくれる人なんてそういない。
そんなことを考えて、またしても気が重くなってしまったけれど、このことに関してはおじさんのせいではない。私の問題なのだ。
※ヘッダーは、昨日おじさんがフルートとともに送ってきた謎のファイル。表面に田沢湖への愛を叫ばれてしまったので再利用することもできない。