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毎日50本、毛をむしっていた。

 髪にお金をかけている。

「お金をかける」と言うと「一体いくらだよ」と思われるだろうけど、何はともあれ〝とりあえず髪〟という意識で過ごしていると、年齢が上がるにつれて自然と髪に使う金額は増えていくのだ。

 髪にお金をかけると言っても、それは複雑な技工を凝らしたカラーやパーマを施してセレブのような髪型にすることではなくて、ただただ髪の健やかさを願ってお金をかける。七五三の祈祷みたいなものだ。

 三十七歳になった頃、突然髪の質が変わった。それは驚くくらいの変化だった。
 まず、直毛に近い髪に縮れ毛が混じるようになった。
 しっかりと波打つ毛が、一気に増えた。


ノートに書いてみるとこういう毛。


 昔、美容院に勤めていた頃、年配の女性のカラーリングをしていてこういう毛をよく見かけていて、これがある種、老化の「サイン」なのだなと思っていた。
 その縮れ毛が、見える範囲私の頭のいたるところに、いる。
 まるでそれは見たこともない生物のように気味が悪くて、毎日鏡を見ながら五十本くらい抜いていた。
 さすがに抜くのはまずいと思いながらも、縮れ毛を目にすると抜きたい衝動に抗えなかった。
 いざ抜く作業に入ると一時間くらいは平気で経ってしまうし、見れば見るほど憎くて、そのストレスからか、白髪も増えた。

 四十歳を目前に体内のホルモンの分泌に、なにか大きな変化が起きたのだろう。
 その頃、身辺の状況もよくなかったから全てが嫌になりそうだった。とりわけ髪が整っていないことは心に大きなダメージを与えた。

 髪に潤いがないと心がささくれ立つ。何をしてもまとまらない髪の毛にターバンを巻いたりして誤魔化していたが実際には何も改善しないのだ。苛立ちを抱えていた。
 だけどその頃、ちょうどセルフ整体にのめり込み始めていて、「何歳からでも体は変わる」「体は繋がっている」と信じて我が身に向き合い始めたことは希望になった。
 腰のこわばりを取るのに眉毛の上あたりを筋膜リリースボールでほぐす。そうすると背中や腰のあたりまでの筋膜が緩んで、前屈しやすくなったりする。体が繋がっていることを感じる。
 このように、顔と頭皮が一枚皮で繋がっていることを考えれば、顔がかさついているときには頭皮だって乾燥していて、健やかな頭皮がなければ良い髪の毛だって育たないのだと思い至る。
 体のことを学び、全ての繋がりを見直して、食事も意識した。食べたもので細胞を生き生きさせる、隅々まで栄養でぱんぱんにしてあげようとイメージし、心に決めた。

そうして三年が経った。

 先月、とある授賞式に出席することが決まり、一番最初に私がしたことはもちろん、美容院の予約だった。
 あまり日数がなかったため、予約が取れなかったらどうしようと不安になって縮れ毛が増えそうだったが、無事にいつもの担当にお願いできることになった。

 施術前のカウンセリングの場にやってきた美容師に、私は「これでもか、というくらい、さらさらの髪になりたい」と言った。
 担当美容師は特に驚くことなく頷いて、私の髪を両手ですくい上げると、パラパラとばらすように触った。
「カットは必要に応じて。前髪は慎重に切って欲しい。眉毛の下、二ミリで」
 担当美容師はまたしても深く頷いた。
 この美容師と出会ってからの二年間、「前髪はどうしますか」と訊かれるたびに「なんでもいいです」と答えてきた女が、切羽詰まった様子で「眉毛下二ミリ」と指定したのだ。ただ事ではないと察しただろう。
「二ミリなんですね。三ミリではなく」
 そう言った美容師はいつもより賢そうに見えた。
「人前に出るんです。それが一週間後だから、それまでに一ミリ伸びる計算です。だから、今は二ミリで」

 そうして三時間かけてその日の施術は全て終了した。トリートメントをした髪は文句なくさらさらであった。
 肝心な前髪はというと、久々にプロに切って貰ったおかげで綺麗にアーチを描いている。ただし、オンザ眉毛で。(眉下ゼロミリ)

「どうですか」とあわせ鏡で後ろ姿を見せられて「ばっちりです。楽になりました」と答えた。
 たった今仕上がった髪型に対して過去形で答えてしまったところに動揺が現れていたはずなのに、美容師は気づいていなかった。彼のそういう所が好きだ。

 会計時、美容師は私にあるスプレーを用意してくれた。「これでもか、というくらい、さらさらに」という要望を叶えるための最後のひみつ道具である。
「サロン専売品」と書かれているそれは、お菓子で言えば「モンドセレクション金賞」みたいな意味に捉える人がいるとか、いないとか。

「これすると、めちゃくちゃさらさらになります」
 そう言われた私は深く頷いた。
「フローリングに間違ってスプレーすると、確実に転びます」
 その言葉を聞いて、不審者が家に侵入した時に床にスプレーして次々悪者を転ばせて逃げるアラフォーの姿を思い浮かべた。
 ほくそ笑み、「それ、ください」と言った。

そのスプレーというのがこちら。


リケラミスト。


 美容師の言ったことは本当で、髪は恐ろしいほど、これでもかというくらいにさらさらになった。
 髪の健やかさを願い、金をかけてきた数年間の努力を嘲笑うかのように、このスプレーは瞬時に私の髪を美しくした。悔しいくらい、化学の進歩を感じる。
 そして忠告通り、床は黄色いテープでその場を囲い注意喚起しなければならないくらい、滑りやすくなった。鏡台の近くを靴下で通るときには、薄く張った氷の上を歩くように慎重に進む。そんな時私は、母指球・小指球・かかとの三点を意識して歩くのだ。足裏を意識して歩くことはとても大事なことだから。

 そうして、今の私は真にさらさらの髪を手に入れてしまった。
 人にはそれぞれ価値観があって、私の場合は髪と推し活に資金を投入することに価値を感じるのである。

 三年前、夜な夜な鏡の前で髪をむしっていた可哀想な私に伝えたい。
 何歳からでも体が変わるように、髪の毛も愛してやれば変わるのだ。
 ある有名な美容家の方が生前、自らの体験から得た大切なことを語られた。

「愛情をかけた分だけ必ず肌は応えてくれる」

 髪も同じなのだ。




後ろ姿だけでナンパされるのが夢です。そうして振り返った私を見て相手が「ギャー!」と逃げ出す
一連の流れ込みで。




#想像していなかった未来

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