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短編小説|夜は 【前編】

(一)

 濡れた毛先がブルーのキャミソールに触れて、黒い染みを広げていく。
「それ、模様かと思った」と言ったユナの猫っ毛に目をやると、重力に逆らうようにして空を浮遊している。
「オイルでもつけたら? ぱさついた髪の女は安く見積もられるよ」
 優しく言ったつもりでも反応はなかった。私の小言を聞き流しカフェオレを飲むユナの喉元には、見栄えの悪い痣があった。
「ユナって、人の話聞かないよね」
 私は絨毯に片膝を立て、膝に手を置き、体重をうまく移動させながら立ち上がった。
「シーって、何歳だっけ」
 知っているくせに、ユナはわざと訊いている。私の小言をしっかり聞いたうえで、その仕返しに嫌味を言う気なんだ。
「シーのその立ち方さあ……」
 中途半端に言葉を切り、あはは、と乾いた声で笑う。売れない女たちからの嫌がらせはしょっちゅうだから、私はそんなことで落ち込んだりしない。
 ユナは二十歳になったばかりで、五つも若い。それなのに、誰が見ても錆びついている。若い見た目のその奥は空虚で乾ききっている。私はユナのことが心配だっだ。どんな女でも、此処にたどり着いたのには何かしら理由がある。私だってその一人だ。
「私の足はさ、生まれつきだから」
 そう言うと、ユナは腹を抱えて笑う。嘘つけ、と甲高い声を響かせた。
 ユナの言う通り、この足の不具合は持って生まれたものではない。壊されたと言うには大袈裟だろうか。男と交わることも、自力で立ち上がることも、小走りに夜の街をかけることもできるこの足を、いつまでも憐れむことは馬鹿げているのだろうか。
「髪乾かしてくる。連絡きたら通して」
 はいはーい、と愛想良く振る舞うユナを心から信用してはいない。誰のことも信用できない。だけどこの世界に身を置くしか選択肢の無い今の私は、この信用できない空間にこそ信頼を寄せる。矛盾。どこへ行ったってなにか矛盾する。どこへ行ったって一緒。ただ、私には昔から変わらず探しているものがある。確かめたい唯一のことがある。だから彷徨っている。どこへ行っても一緒と思う気持ちを置き去りにしてでも彷徨い歩く。自分だけの不自由さを抱えて。正式には誰からも認められそうにない不便さを抱えた体で。この体を切り離して、魂というものになれたら。そう思うことは子どもの感性のような気がするから誰にも言わない。だけど想像してしまう。軽くて、好き勝手にどこへでも浮遊する魂。誰にも悟られず、傷つけられず、青白く澄んだ光を纏い、空気や水に馴染む。音の流れを読み、優しさや悲しみに敏感な、清らかな存在。たましい。

 轟音とも言える古いドライヤーの音に紛れるユナの声を聞いた。風を止めて、耳を澄ます。
「シー! 田所さん。どうする? 三十分後だって!」
「行くって言って!」
 田所、と聞いて荒く乾かしていた髪にブラシを入れた。きめの細かいキューティクルを撫でつけ、艶を引き出すように乾かす。真っ直ぐで艷やかな髪は私の自慢だ。少女のような天使の輪をつくっては鏡の前で満足する。そして、そういう髪はいつも男たちから愛される。髪を綺麗に保つことは、私が男と会うための準備として必須だった。
 
 田所努(たどころ つとむ)。初めてこの名前を聞いたとき、この名前のつまらなさに惹かれた。若さを感じない名前だと思ったのは偏見だけれど、実際に会った彼は名前の印象通りだった。一見してまともで、小綺麗な身なりでいる。一度では覚えられない特徴のない見た目と、肌を重ねたときの自己中心的で獰猛な目つきに変わる彼のギャップはこころを打つ。だけどそこが魅力だとは伝えない。田所からも訊かれることがない。本心を知らせ合う必要がないから、安心して会うことができる。
「田所さん、どこって?」
「いつものとこって」
 スマートフォンをいじるユナが小さく答えた。
「ユナ、冷蔵庫に私の……」「いらない」
 ユナの返事は素早く、冷たい。
「残飯処理させんなって」苛立っているのか、言葉が荒い。
「そういうつもりじゃなかったけど」
 これ以上不機嫌にさせるつもりもなく、私は鏡の前に座り、粒の大きいグリッターのラメを黒目の下にほんの僅か、光らせた。
 目をぱちぱちさせて様子を見る。視線をずらすと、鏡越しにユナと目があった。
「冷蔵庫に入ってるの、なんなの」
 ユナが言った。
「ウチカフェのプリン。でもいいよ。無理して食べなくて」
 プリンと聞いて、ユナが、ふっと笑った。
「いや、いいよ。やっぱ食べてあげる」
「ううん。食べなくていい。悪いから」
「いいって」
「ううん、いいよ」
 にやにやした笑顔がユナを幼く見せる。私も自然と悪戯な表情になった。
「そんなに言うなら……ここはユナ様に甘えて、申し訳ないけど食べていただこうかな」
 振り返り、上目遣いにユナを見ると、ユナは勝ち誇ったように右の口角をあげて、仕方ないなあとつぶやき、またすぐにスマートフォンに視線を戻した。
 私はユナを憐れんでいるのではない。だけど、今日はまだ指名がなく、何時間も同じ場所に座り込んでスマートフォンをいじるだけのユナが、これから一人で過ごすこの夜のことを思うと、プリンくらい差し入れたくなる。決して同情からではない。お互い様の仕事だから。ただ、いつだったか、ユナが買ってきてくれたウチカフェのシュークリームのお礼をしたかっただけなんだ。

 秋風、というよりはもう冬のようだ。昼のあいだ温められた大気中の熱は、夜の訪れとともにそそくさとどこかへ去っていく。きっと「空気を読める」のだろう。そんなことを考えて少しにやけた。
 予約したタクシーを見つけて、薄いコートの前をしっかりと合わせて駆け寄った。
 開けられた扉から体を滑り込ませ、左足を腕で引き寄せる。落ち着いたところで「◯◯ホテルまで」と告げて、窓の外に視線を移した。
 流れる景色を眺めていると、ぼんやりと街を覆う様々な光が網膜を刺激する。コンタクトが乾いて目に張り付いて、その度に乾きを癒すように何度も目を瞬かせた。時刻はもうすぐ、零時を回る。
「あと三分」
 聞こえるように呟くと、バックミラー越しに運転手が私を見た。
「さすがに、三分では着かないですよ」
 運転手の声に、いつもの私なら反応しない。だけど今夜は、どうしても伝えたくなってしまった。背もたれに預けていた体を起こし、少し前かがみになる。運転手の耳元に届くように顔の角度を決めた。
「私の誕生日なの。あと、二分」
 そのあと、運転手が私におめでとうと言ったかどうかはわからない。何しろ、返事があったかもしれないタイミングで、数台のバイクが私達のタクシーの横を通り過ぎて行ったのだ。定かではない、だけど、そこには希望が残されている。「おめでとう」と、言われたかもしれないという希望。無視された可能性もなくはないけれど、私はこういう二択ならば希望を残す。今の私は多くのことを自由に選ぶことができるから。そんなことを、客の元へ向かうタクシーの中で時々考えている。
「おめでとうございます」
 不意を突かれて驚いた。信号で一時停止したそのときだ。外の喧騒も一時的に届かない、魔法がかったような静けさの中に、かすれ声の「おめでとう」。
「ありがとう」と返した。
「嬉しそうじゃないですね」
 そう言って、ふんと鼻を鳴らした運転手の気持ちがわからない。自分だって、全く嬉しそうじゃないのに。それならどうして「おめでとう」だなんて声をかけたのだろう。私はどうして、私の誕生日についてこの世で一番興味のなさそうな男に、今日が誕生日であることを告げたのだろう。

 タクシーの扉が開かれ、左足をゆっくりと地につけた。手すりをにぎり立ち上がりながら、少しだけ振り返り、運転手に言った。
「本当は誕生日じゃないです」
 私の体が完全にタクシーから離れても、まだ扉は閉まらない。
「二ヶ月前もそう言ってましたね」
 そんな声が聞こえて、扉はしまった。爪を噛んだ。
 かつかつとコンクリートを蹴りつけるようにして細いピンヒールで行く。目の前には待ち合わせをした城がある。夜の間だけ息を吹き返す城。獣たちの檻。誇り高き変態が、生きることを許される場所。何人もの若い女たちが姿を替え、魂を塗り替えた場所。今となっては、私にとってこころ安らぐ場所でもある。
 田所努。なんの変哲もない名前を呼び出し、番号を押した。
「静(シズ)です。着きました」




中編】へつづく


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