
短編小説|夜は 【後編】
(三)
いつの間にか目を閉じていた。押し付けられる冷たい卵は、いつしか私に癒しをもたらす存在になったのかもしれない。
目を開けると、真顔で私を観察している田所がいた。相変わらず感情を読めない。だから私も負けじと見つめ返す。ここではほとんど会話をしないこの人の、昼間の姿を思ってみる。立派なスーツに身を包み、はきはきと発言をして周囲と交わる。そんな姿がこの人の生きる時間のほとんどなのだ。だけど今は、このたった二時間の間は、そんなまやかしの皮を脱ぎ捨て、無防備に欲望を晒す。此処は彼の城。私は彼に求められて此処にいる。誰にも見せられない姿を私だけが受け止める。そう思えることは誇りであり、喜びだった。だけど、そんなことを思っても絶対に口にしない。口にした途端にこの人は私から離れていくだろう。私は彼の何でもない存在で有り続けることが最大の存在意義であることをわかっているから、私自身の思いは内に秘め、内に放出する。ずっと、孤独に。
田所は握っていた卵を、くずれた卵が入ったままのブランデーグラスの中に入れた。橙色と透明が混ざり合う液の中に、白い殻をまとったままの卵が浮かんだ。同じ類のものであるのに両者は馴染まない。どろりとした透明な白身に抱かれる球体は、居心地悪そうに無表情のまま身を固くして耐えているようだ。
グラスの中の卵に見入っていると、田所は三つ目の卵に手を伸ばした。冷蔵庫から取り出して時間が経った卵は随分と表面に汗をかいていた。田所はそれを私に手渡し「割って」と言った。
私は受け取った卵の上下を見定めるとどちらかというと平らな方を二回、テーブルに打ち付け、空のグラスに割り入れた。
あ、と声が漏れたのは失敗したと気付いたからだ。どろりとくずれた黄身は、グラスの中にだらしなく広がる。四個あるうちの二つも膜が破けてしまうなんて、これは新鮮な卵ではないのだろうと、その品質を疑う。
「爪があたったんだろう」
冷静に田所がそう言った。私の心の内を読んだような台詞だ。
「そうですか?……そうかな……」
「そうだよ。俺は見ていたから」
田所は割れた卵を見つめた。グラスを揺らし、なおも眺める。
「意外と繊細なんだろう。ちょっとした傷で、形を保てなくなるほど」
「それって、何かの比喩ですか」
田所らしくない台詞に思わず口を挟んだ。返事はなかった。無言の時間が続く。
私はこの静かな時間が好きだ。ずっとこうして、二人裸のまま、絶妙に距離を保ちながら卵を眺めているのもいい。こんなことは田所とだからできることだった。この人でなければいけないというものは大概思い込みだと思っている。だけどこの瞬間は、そういう冷めた感情を隠して、目の前のただ一人と向き合っていたい。
「君みたいな人がいると助かるんだ」
そう田所が言ったのは、初めて田所に買われた日の別れ際だった。この発言の意味は、私にはよく分かる。私はこの日、これまで経験したことがないくらい、たくさん涙を流した。傷ついたとかそういうことじゃない。ただ、自分が水分をいくらか保有する生物なんだということを思い知らされる程に涙は溢れたし、涙に限らず、体中の穴という穴から液を放出した。今となっては記念すべき日だったと言っていい。
痛みは私にとって、なくてはならないものだ。田所においてもそうなのだ。もっとも、彼は痛みを与える側なのだけれど。
私と田所のような関係に於いて、そこに優劣はない。私達は共鳴し合っていた。互いを必要としていた。この繋がりは深く、一度結ばれればおそらく一生、離れることがない。この感覚を共有できる相手として認めたからこそ、田所は私にあの言葉を伝えたのだ。──君みたいな人がいると助かるんだ──。これは私の予想だけれど、本当は言うつもりはなかったのだろう。それなのに思わず口をついてでてしまうほど、あの日の私達は互いに〝完璧〟だった。あの夜、私はこれまで生きてきた二十五年の歳月の中で初めての感覚を味わった。それは、田所だけが感じさせてくれてる特別なものだ。だけどそれ以後、私に対して田所が同じことを試みることはなかった。なぜだろうと考えると、いつも一つの答え、一つの感覚にたどり着く。
〝あまりにも完璧〟だったのだ。あの夜の私達は。
これが理由なんだ。田所はあのときの夢のような感覚を永久に保存しようとしているんだ。壊したくない、失いたくないんだ。だから、この価値観を互いに持ち合わせているかどうかが試された二回目の再会は緊張した。私はもちろん、想いがあっても口にしない。だから田所に委ねるしかないのだが、彼は私の期待を裏切らなかった。私と田所の再会は、「あの初夜」が彼にとって頂点だったことを私に知らせるために必要だったのだ。田所のその真摯な気持ちに気づいたときの私の喜びといったら。自分が必要とされる喜びであり、私という個体が認められた喜びだ。この世に生を受けてから初めて〝優越感〟というものを味わった。田所と出会ったお陰で、私は心から誇れるものを持つことができた。それは目に見えるものではない。ましてや、説明できるものでもなく、ただ私の胸に宿り一生を共にすることになった〝感覚〟なのだ。
残り一つになった卵。それは田所によって持ち上げられたとき、一粒の雫を落とした。その後、丁寧にブランデーグラスに割り入れられ、きれいな丸みを保ったまま、透明なとろみの中に浮いた。
「ゲーム開始だ」
そう言って田所は私と向かいあった。田所がグラスを持ち上げると、その背後にある赤い壁が透けて、グラスの中身は真っ赤に染まった。
「崩さないよう、慎重に扱うんだ」
近づいてくる田所が私の後方を指差し、ソファに座るよう指示する。
「渡し合う。ただそれだけだ」
田所の持つ卵の入ったグラスは、今ではソファに腰掛けた私の顔の前にあった。こんもりと丸い、橙色の黄身を見据える。
ワイングラスを扱うようにグラスを回す田所の動きを、ただ見つめた。やがてグラスは田所の口元へ引き寄せられた。
グラスに口をつけ、傾けると、橙色の黄身と透明なとろみは瞬く間に田所の口の中へ落ちていった。
少し上を向き、喉を動かさないようにして静止した田所の顎から徐々に視線を下げていく。喉仏の緊張具合や、胸の中心にある骨を眺める。続けて視線を落とすと、薄っすら割れた腹筋群の下に縮れた毛が見え始めた。その更に下まで視線を添わせれば確かな膨らみが見て取れる。だけど、今日はそこに触れることができない。
田所は私の肩に触れた。そして、その手で首筋をなぞり顎をあげさせた。田所の顔が近づく。唇を指で触れられると、不思議なくらい自然に、私は口を開けた。そこに、田所の中に隠されていた卵がぽこんと落とされた。私は口の形を変えないように注意しながら、つばを飲み込むように一度だけ喉を動かした。するとほんの少し、白身の一部も喉に流れた。
「飲み込まないように。潰さないように」
田所が耳元で囁く。耳は私の感じ易い部分であって、すぐに快感が体を巡る。それを知っているから、田所は執拗に耳の周りに唇を這わせてくる。
私は田所から身を離すと体の向きを変え、ソファに座っている田所に跨った。布一枚を隔てて守られている互いの性器は、うんと近くに存在を感じ合う。それでいて、互いへの意識を失いたいと嘆き、必死に欲望に抗っていた。本心では乱暴にその布を剥ぎ取られるのを待っているのに。
興奮に満ちる体が苦しい。早く胸いっぱいに息をしたかった。私は田所の顔を両手で挟み、適度に開かれた口元の暗闇めがて卵を移した。
卵を無事に預けると、水中から勢いよく顔を出したときのように体をそらし、天井を見つめて大きく呼吸をした。田所はソファに持たれ、薄く口を開いている。口移しをしたときに流れたよだれが、筋のように私の胸の間を流れた。それを田所の指が拭う。拭った指はゆっくりと肌の上を滑り、片方の乳房の下部を撫でる。それを繰り返す田所を上から見下ろし、彼の短い髪の毛を掴んだ。掴んだり、指を開いて髪をすいたりした。
田所は私の腕を掴むと、自分の横に座らせるため強く引いた。私は跨っていた脚を崩し、不器用な左足をかばいながら田所の横に座った。するとすぐに田所は私の口に卵を滑り込ませてきた。ぬるくなった黄身と白身に、さらさらした田所の唾液が溢れんばかりに混じる。堪らず、大きく喉を動かした。そのとき、白身の大部分を飲み込んでしまった。
「飲み込んだら終わってしまうぞ」
そう言いながら田所は私の体の隅々に唇を這わせ刺激し始めた。何度も短く首を振ってやめさせようとするのにやめない。「今日はしない」は嘘だったのか。だけど、肝心なところには触れようとしない。それはじれったく、私は小さなストレスを抱えた。それでも、どうしたって体は悦びを隠しきれない。
腹部に吸い付く田所の顔を無理に上げさせ、その半笑いの口に卵を流した。直後、ごくり、と田所の喉は大きな音を鳴らした。その一瞬、互いに動きを止めた。飲み込んだのだろうか。不穏な表情で見つめ合う。田所は私に、より近づいて、静かに口を開けた。舌の上には黄身だけがあった。白身はすべて飲み込んでしまったらしい。平らな舌に乗せられたまんまるな黄身。それを見て私は笑った。
田所は私の隣に腰掛け、顔を近づけるともう一度口を開けた。私は田所の口の中にある黄身を舌先で撫でた。柔らかな弾力を感じる。少し力を込めてみても、この黄身を覆う膜は破けそうになかった。私の舌先が口の中で遊んでいるのを感じながらじっとしていた田所の舌は、突然生々しくうねりだし、私の口の中に黄身を送り込んできた。気をつけないと破けてしまうのに。田所はため息をつくように息を吐き、自由になった口ですぐに私の下唇を舐める。背中に手を回され抱き寄せられると、私の体は田所に吸着した。一つになったような快楽を得て気持ちが昂ぶると、すぐに口の中にある黄身の存在を疎ましく思った。早く田所に黄身を渡してしまいたい。それなのに、こういうときに限って田所は私から顔を遠ざけている。わざと焦らしているのだ。田所の首にしがみつき、声にならない声をあげた。じたばたともがけばもがくほど、私は田所に強く抱きしめられた。泣いているのかと思うほどに潤った秘部は、布一枚隔てたまま、いつの間にか田所のそれと重なり、同じリズムで動いている。田所の背に立てた私の爪は弾き返されることなく皮膚に食い込んだ。歯を食いしばるような田所の表情、眉間の皺をじっと見た。この赤い部屋ではよく見えないが、きっと彼の頬は紅く染まっている。体は、本人にも操りきれない正直さを示す。だから私はこの仕事が好きだ。此処では人間の正直さと出会う。
険しい顔、目を瞑り、苦しそうにあえぐ。どうして、どうしてこの人は頑なに私を抱かないのだろう。私はいつでも受け入れる準備があるというのに。考えている内に泣きわめきたい気持ちになった。口元の不自由さが憎く、意を決し、黄身を飲み込んだ。ごくり、と大きく喉が鳴った。
「飲んだのか」とかすれた声で訊き、田所は私を見下ろした。その顔を見て、噛みつきたい衝動にかられたが耐えた。田所の体によじ登るようにして唇を吸った。私の口か、それとも両者なのかわからないが生臭い。吐き気を催す卵の生臭さを、互いに移し合うように貪った。
長いキスの途中、ふいに田所が私の左足に手をかけた。その大きな手で腿を掴み、一度絞るように外向きに動かし、付け根から股を開いた。私は悲鳴を上げた。激痛が走る。突然のことに体勢を保てず、ソファに手をついて体をよじった。田所は私の腿を握ったまま離さず、押し上げたり揺すったりし続ける。まるで私の悲鳴の種類を聞き分けるように、無表情のまま耳を澄ましている。
「立てなくなるの、お願い、やめて」
私は意識が飛びそうな中で叫んだ。
「おねがい、おねがい」
普段なら、やめてやめてと泣く自分の声を聞く、もう一人の自分がいる。演技とまでは言わないが、冷静に状況を見極めようとする、もう一つの目がある。だけどこのときは痛みが勝り、意識が朦朧とした。
「──さん、お父さん!」
そう叫んだ直後、田所は動きを止めた。二人の呼吸音が混じり合う。私は息を整えながら垂れてくる洟を何度もすすった。
ゆっくりと私から離れた田所は、ベッドに向かい体を横たえた。仰向けになった田所の上下する胸の動きをソファから見つめた。そうしてようやく冷静になってきたころ、自分が叫んだ言葉を思い出した。
──お父さん。
田所は寝てしまったのだろうか。無駄に言葉を発しないのはいつものことだが、このようにいつまでも無防備な姿でいることは珍しい。
田所の寝ているベッド脇のデジタル時計の表示を見ると、此処にいられる時間は残り三十分を切っていた。
私は体を起こし、足元に落ちているスリップを身に着け、左足を引きずりながら田所の足元に座った。柔らかいベッドに腰掛けると急に眠気を感じ、言葉をかけようにも頭はうまく回らない。
そのとき田所が口を開いた。「こっちに」と言い、胸の上で組んでいた右手を真横に伸ばした。私は這うようにベッドの上を移動して、田所の右側に体を寄せ、彼の右腕に頭をあずけた。
腕に耳を押し当て、田所の内側を流れるものの音に耳を澄ました。さっきまで恐怖を感じていたのに、今では彼の体温を感じ、安堵している。ちらりともこちらを見ようとしないその横顔を見上げれば、田所はうっすらと目を開けていた。なにか話し出しそうにも見える口元を黙って見つめる。すると、ついにその唇が動いた。
「此処で父親を求めるのはやめたほうがいい」
傷つくだけだ、と田所は言った。
──父親。私の記憶に存在しない父は、子どもの頃から私を支配している。父の愛を求めているのかと言われればわからない。だけど、なにか満たされない大部分を〝父を知りたい〟という感情が支配していると気づいてからは、年上の男性と関係を持ち、依存するしかなかった。
ファザコンと言われれば扱いは軽やかだ。年上好きと言われれば品よく聞こえる。では、死ぬほど父親を追い求めていると言ったらどうだろう。父親が何をしてくれる存在で、愛され方もわからないのに。
私が知っている唯一の父の情報は、私の左股関節を壊した人、ということだけ。恐ろしく暴力的な男、それが父という人だ。
「俺は此処に、欲を満たしにきている」
田所は言った。
「若い女の父親代わりをしに来ているんじゃない」
「わかってます」
田所の腕から顔を上げて少しだけ声を荒げた。それと同時に、視線の先で光るデジタルの数字が、さっきよりだいぶ進んだことを確認した。
「代わりなんて求めるもんじゃない」
田所は私を見た。鋭い目をしている。怒っているように見えるがそうではない。この目は、なにか惜しんでいる。
「誰かは誰かの代わりにはなれない。日常の幸せが特別な夜の代わりにならないのと一緒だ」
田所が言葉を発する度、私は胸の奥に痛みを感じ始めていた。
「随分と説教しますね。今日は……」
やっぱり胸が痛い。私は無意識に自分の胸の中心を撫でた。
「だけど田所さんは、昼間の世界でもちゃんと幸せを感じて生きてるんですよね」
呟くようにそう言った。嫌味ではなかった。私はただただ田所のことが羨ましく、まともに生きる人が持つ当然の感覚を受け入れるのに困惑していたのだ。
「いろんな自分があることを認めて生きてるんだよ。どれが本当の自分かなんてつまらないことを考えてもしかたない。俺にとっては此処に来ることも、夜の世界を楽しむことも昼間の自分の一部だ。そして、昼間の自分を保っているからこそ、此処に戻ってこられる」
田所は起き上がり、机の上に置いていた腕時計をつけた。私は黙って、身支度を始めるその背中を見つめた。
「君はシャワーを……」「使いません」
私は左足の痛みが思った以上にひどいことを感じていた。
「私に構わず、先に出てくださいね」
返事をしない代わりに田所は私に近づき、一度だけ頭を撫でた。
「変態は、変態でいるために働くんだ。昼間を生き抜くんだよ。君は……俺が認めた女だから。いつまでも此処にいるのはもったいないかもしれないな」
「それって、父性から助言してくれているんですか」
ふ、と短く笑って、田所は私から離れていく。シャツを羽織り、ボタンを留める。スーツの下を穿き洗面所へ消えた。
寝転んだベッドシーツの冷たさが今更肌の奥にしみ入る。このあと一人取り残されるこの部屋で、私は眠りにつくこともできず、どこに消えることもできずに、いつしか朝を迎えるのだろう。私はまだ、夜にすがっていたい。自分の心が、もういいよ、と言えるまで、このベッドの上で夜と交わり、混じり合いたい。夜に埋もれた私は、私以外の人間に見つけられることもなく、ここで息を潜めて夜に溶け込む。こんな私に昼間の幸せなんて、どうして見つけられるだろう。
昼間、田所や多くの人間が当たり前に纏っている〝健全〟という衣を盗んで、その下に隠れたい。そして、太陽の光や人々の笑い声や生命の煌めきに少しずつ体を慣らしていこう。急に放り出されたら一瞬にして形を失う私でも、少しずつなら順応することができるかもしれない。そしてまた夜を迎えたころ、衣の下から一人這い出し、月明かりの下で胸いっぱいに呼吸をする。細胞の全てにいき渡らせるように、静かで冷たい空気を体に巡らせ、夜を循環させる。そうして今日をつなぐ。今日のいのちを渡り歩く。夜に、まだ行かないでとすがりながら、少しずつ、自分の満たされないものを埋めていきたい。
左足を撫でながら、静かにドアが開く音を聞いた。ありがとうもさようならもない。当然のことだった。夜は消えることなく、いつも此処にあるのだから。あの夜の記憶を忘れることがないのと同じ。ただ声もなく、此処にある。
了
#短編小説
四百字詰原稿用紙約四十六枚