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掌編小説|初恋は契りて

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 大学に進むために上京して、一年と三ヶ月が経とうとしていた。初めのうちは気の合う友人もできず、憧れたキャンパスライフは思うようにならなかった。それがこのところ、毎日とても楽しい。始めたばかりではあるが、テニス同好会に気になる人が出来たのだ。少人数で構成されたこの同好会は紹介制で、同じ学問を専攻している女友達に誘ってもらい、私もメンバーの一人になった。

あずまです」

 その人は私の目を真っ直ぐに見てそう言った。少し古風な雰囲気は一昔前の映画俳優のよう。周りの男の子たちに比べて、とても落ち着きのある人だった。私はそんな彼に話しかけられて、緊張のあまりわざとらしいほどの笑顔を作ってこう言った。
「東さん、はじめまして。恵美子えみこと言います。よく笑うので『笑う』方の『笑み子』で覚えてもらっても構いません」
 緊張していても淀むことなく話すことができた。これは私が自己紹介によく使う台詞なのだ。
 
「恵美子さん」
 彼は私に話しかける時、必ず名前を呼んだ。その頃、女性を下の名前で呼ぶ男の人は私の周りにいなかった。私の両親も互いを名前で呼んだりしない。名前を呼ばれる度、強烈に『個』として見られている気がして、初めはなんとも気恥ずかしかった。

 元々人数の少ないテニス同好会は、その日の欠席者が多いときは活動内容を変えて、ただ集まっておしゃべりをしたり、映画を観に行ったりした。私は活動に参加することが楽しくて、ほとんど休むことがなかった。それは彼も同じだったから、私たちの距離は自然と近くなっていった。
 いつしか私は彼のことを〝幸人ゆきひとさん〟と呼ぶようになった。私が名前を呼ぶと、彼はいつも笑顔で「なにかな、恵美子さん」と答えてくれた。彼は育ちの良い人なのだろうと思った。

 ある時、キャンパスのある駅から数駅先に新しく出来たイタリアンレストランで交流会をしようという計画が持ち上がった。その時の幹事は彼で、お店を予約したり、人集めをしてくれた。彼が決めた当日のドレスコードは「秋色」だった。
「恵美子さん、手持ちの服で、秋色の服があれば着てきてね。デートするみたいにお洒落して来ても良いんだよ」
 彼にそう言われて心が踊った。しかし同時に困り果てた。私はいつだってファッションに疎くて、流行りのものはあまり持っていなかったし、そもそも新しく服を買うお金が無かった。
 ちょうどその頃、運良く姉が東京に遊びに来ていた。年の離れた姉は既に自立して働いており、毎月の給料もあった。私は姉を喫茶店に呼び出すと事情を打ち明けた。
「姉さん、お願いします。どうしても秋色のワンピースを買いたいんです。いつか必ず、お金はお返ししますから」
 この姉と喫茶店で向かい合ってコーヒーを飲むのは初めてだったかもしれない。姉はとても大人らしい佇まいで、なんとなくこちらが敬語を使ってしまう余所行きの雰囲気があった。
「あら、随分と必死だこと。どれどれ」
 そう言うと姉は私の頬に自分の手の甲を当てた。
「熱い。興奮しているわね」姉は笑った。
「もう、姉さんやめて」私も笑ってしまう。
「どうしたの。誰かに恋でもしたの?」
 姉が私の顔を覗き込んだ。私はさっそく姉に見抜かれたことが恥ずかしくて、両手で顔を隠した。
「あはは。わかりやすいわ」
 姉は豪快に笑いながら私が恥ずかしがっている様子を面白がった。
「こんなこと、姉さんにしか頼めないじゃない。お願いだから、誰にも言わないで」
 姉は笑顔で頷いている。
「とても素敵な人なの。だけど二人きりのデートじゃないのよ。交流会に参加するだけだから」
「あら。デートじゃないの」
 姉はどこか拍子抜けした様子だった。
「それでもお洒落した姿を見せたいだなんて、それはもう、完全に恋ね」
「そうだと思う」
 私の顔は本当に真っ赤になっていたかもしれない。そして何故か泣きそうだった。
「姉さん、いくらか貸してくださる?」
 私はもう一度姉に訊いた。
「断るわけがないでしょう。もちろん貸してあげますとも。それでね、もし貴女が意中の彼を射止めたら、買ったワンピース代は返さなくていい。プレゼントするわ」
 そう言うと、姉は私に目配せをした。
「本当に? 姉さん、ありがとう!」
「せいぜい頑張んなさいよ。そして気をつけなさい。初恋というのは、思っているより、深く心に残るものなのだから」
 どこか遠くを見るようにして恋について語る姉に、その時の私は憧れを抱いた。
 
 姉と別れて、私は秋色のワンピースを探すため街へでた。ショーウィンドウに飾られるような服は高価で手が出ない。それでも想像の中で自分の体に当てて見ると、それは私によく似合った。自分の姿をガラスに映して見ていると、いつしか隣には幸人さんの姿が見えてきた。微笑む彼の傍らに、流行りのワンピースを着た私がいる。想像の中で、私たちは似合いのカップルだった。

 結局、よく行くブティックでコスモスの花のような、落ち着いた紫色のワンピースを買った。それでも、普段私が買う服の値段よりはだいぶ奮発した。ワンピースに合わせて、小さな肩掛けのバッグも買った。
 家に帰ると幅の細い姿見で、何度も角度を変えながら、ワンピースを着た自分を眺めてうっとりとした。幸人さんは私の姿を見てなんと言うだろうか。私は想像するだけで胸が踊った。

 交流会の日、約束の午後六時より五分早く店についた。店の窓からは橙色の明かりが漏れている。薄暗い店内で、このワンピースはくすんだ色に見えてしまわないだろうかと不安になった。幹事である彼はきっともう店の中にいるだろう。そう思うと胸が高鳴った。そうして私がドアを開けようと手を伸ばしかけたその時、後ろから来た誰かが、私より先にドアを押した。顔を向けると、そこには幸人さんがいた。
「やあ、早いね。僕は幹事なのに、うっかり遅刻しそうになってしまったよ」
 珍しく彼の息が乱れている。だけど相変わらず笑顔が爽やかだった。彼は私と目が合うと、ドアからいったん手を引いて私に向き直った。
「今日の恵美子さん、とても素敵だ。そのワンピースの色も形も、すごく似合っているよ。参ったな」
 彼はそっと鼻をこするような仕草をした。私は照れてしまい、とっさに言葉が出てこなかった。それでも「ありがとう」と小さな声で言った。
「時間だから、入ろうか」
 彼にエスコートされ、予約した席に着いた。
 通された席は広めの二名がけだった。彼に促されて席についてから、私は彼に訊ねた。
「皆は?もしかして他に誰も来ないの?」
 彼はゆっくりジャケットを脱いで椅子の背もたれにかけながら言った。
「実はね、昼間に次々と欠席の連絡をもらって。どうしようかと思ったのだけど、僕はこの店に来てみたかったし、恵美子さんが来てくれるのであれば、何も問題なく楽しめると思ったんだ」
 彼はそう説明する間、私の目をじっと見つめていた。これからの時間、こんな風にずっと彼の目は私だけを見るのかと思うと、喜びと共に僅かに緊張してきた。
「大丈夫? 僕と二人だけは嫌だったかな」
 彼は弱ったような表情を見せた。私は大きく首を振った。
「ううん、幸人さんの方こそ、私と二人で良いのかなって少し心配になっただけ。私、今日をすごく楽しみにしていました。よろしくお願いします」
 我ながら硬い挨拶をしてしまったと恥ずかしくなった。彼はこらえきれずに吹き出した。
「本当に恵美子さんはチャーミングだよ」
 そう言って彼は笑った。彼の自然な笑顔を見て、私は肩の力が抜けていった。
 二時間ほどそこで過ごしただろうか。正直、料理を堪能出来なかった。それくらい彼との会話に夢中になった。私はよく笑った。二人で程よくお酒を嗜み、楽しい時間を過ごした。
 デザートまで食べて、そろそろ店を出ようかという頃、彼が私に言った。
「恵美子さんの笑顔が好きだ」
 急に真面目な視線を送ってきた彼に、どう反応したら良いかわからず私は下を向いた。
「そんなこと言って。なんだかからかわれているみたい」
 照れ隠しとはいえ、咄嗟に心にもないことを言ってしまった。
 彼はしばらく黙っていた。彼が黙っていることが気になって、上目遣いに恐る恐る顔を見ると、彼に笑顔は無かった。怒っているのかもしれない。
「ごめんね。気分悪くさせたよね。あんまり男の人から褒められたことがなくて。どう反応したら良いかわからないの」
 動揺する私を優しい眼差しで見ている彼が、一度口を開いてなにか言いかけて、また黙った。それから、意を決したように言った。
「僕は、恵美子さんの笑顔はキャンパス一、可愛いと思ってる。これは本心だ」
 私の心臓の音が大きく鳴る。そして、彼から次に何を言われるのか、なんとなく察している自分に気づいた。
「恵美子さん。僕は貴女のことが好きだ。初めて見たときから好きになっていたのだと思う。恵美子さんの笑顔をいつも思ってしまうし、一緒にいるととても幸せな気持ちになるんだ」
 私は彼の顔をまともに見ることが出来なかった。それでも何か返事をしなければと、頭の中で忙しなく言葉を探す。こんな時どう答えれば良いのか、なぜ私は姉に訊いておかなかったのだろう。
「……子さん。恵美子さん」
 気がつくと、彼が私の名を呼んでいた。
「私……なんだかぼうっとしてしまって」
「いや、大丈夫だよ。なんだか困らせてしまったね。とりあえず出ようか」
 彼は立ち上がった。そしてジャケットを羽織ると会計に向かった。私は慌てて荷物を持つと、絡まりそうな足を必死に動かして彼を追った。
「今日は僕の奢りだよ」
 彼はすでに会計を済ませていた。その後は私のために、重たい店のドアを片手で抑えてくれる。なんて完璧な人なのだろう。それなのに私は、未だ言葉を探していて彼を困惑させていた。
「少し歩こうか」
 彼は私の返事を待ってくれている。その気持が嬉しくて、私はいつの間にか泣いているのだった。
 私の涙に気づき、彼は慌てて私の手を握った。
「ごめん、恵美子さん。困らせたかったんじゃない。ただ僕の気持ちを伝えたくなったんだよ」
 彼の言葉から誠実さを感じた。私は彼の手を強く握り返した。そしてようやく言葉を発した。
「違う。違うの。あんまり嬉しかったから。夢のようなことが現実になると覚めるのが怖くて、どうしたらいいかわからなくなる」
 私は大きく深呼吸をした。
「幸人さん。私も幸人さんのことが好きです。大好きで大好きでたまらないの」
 本心を打ち明けることはこんなにも自分を開放するものなのか。私は、自分の気持ちを告白する心地良さに酔った。もちろん、彼と飲んだ少量のワインのせいでもあるのだろう。


 
 私たちは路地裏を無言で、しかし足早に進んだ。たまに立ち止まっては抱き合い、唇を重ねた。そしてまた足早に路地を進む。
 やがて私たちがたどり着いたのは、古い男女のためのホテルだった。私たちはやっと、本当に二人きりになれる空間に身を置くことが出来た。

 若い二人が思いを打ち明け合った。互いの手に触れ、心に触れた。自然と二人の間に距離はなくなり、体の奥が熱くなるのを感じていた。私は幸人さんに抱かれたかった。幸人さんもそう思っていることを、私は感じとっていた。
 ホテルのフロントの小窓から伸びてきた、しみだらけの女性の手から鍵を受け取る。鍵に掘られた番号の部屋に入ると、彼はすぐさま私の背に手を当て、強く私を抱き寄せた。ブラジャーのホックがある位置に置かれた手から、ワンピースの布地を隔ててもわかるくらいの熱を感じた。
「幸人さん」
 私はその時、まだ誰とも体の関係を持ったことが無かった。それなのに、私の体の内に湧いてくる熱いものが、彼に絡みつきたがっているのを抑えられなくなっていた。
「幸人さん、私は……」
「何も言わないで」
 彼は私が話そうとするのを、激しいキスで制した。背中に置かれていた手は次第に腰に降りていき、私の体が地面から浮き上がる程にきつく抱きしめる。彼のキスは段々と激しくなり、腰を抱く力の強さに私は少しの恐怖すら覚えた。
「……はあっ」
 とうとう息が続かなくなって、まるでプールで息継ぎをするように彼から身を離した。
 彼の乱れた息が首筋にかかり、思わず身震いする。
「愛してるよ」
 彼の低い声が全身を巡った。いつもの柔らかな声ではない。低く重い、それでいて猛々しさを感じる声だ。
「幸人さん、私はあなたのものです」
 彼の耳元でそう囁くと、今度は首筋に彼の激しいキスを浴びた。
 彼は私の背中を大きくかき回すように擦る。私は必死に彼にしがみついた。彼が私の服をすぐにでも脱がせたがっているのがわかった。
「幸人さん、待って」
 私はかなりの力を使って、ようやく少し体を離した。
「これは大切なワンピースなの。無理に脱がせないで」
 私がそう言うと、彼は静かに体を離してくれた。そして私の顎を撫でて優しくキスをした。
「脱いで」
 彼は言った。そして自らも順に服を脱ぎ捨てていく。私は彼に背を向けて、ワンピースの背中のチャックを下ろした。
 ワンピースを脱いで、近くにあった椅子の背もたれにかけた。私は白のスリップを着ていた。それはとても安価な物だった。自分の身につけているものに恥ずかしさを拭えなかったが、彼に愛されていることに自信を持とうと、スリップのことは気にしないことに決めた。そしてもう一度彼に抱かれるため、彼に近づき、彼の首に自ら腕を絡めた。


 
 朝、と言っても夜の続きのような薄暗い時間に目が覚めた。
 昨夜のことが一気に目の前に蘇る。男女の交わりが、こんなにも果てしなく、痛みと悲しみを伴うものだと知らなかった。愛というよりは支配的で、そこから開放されたときの悦びは言葉にできないものがあった。これが快楽と呼ぶものなのだろう。支配され、泣き叫んでも私が彼と離れたくなかったのは、彼が私を愛しているという、何にも代えがたい感覚を手に入れたからだ。
 隣に寝ている、彼の裸の背に触れてみた。少し擦ると、彼は気怠い動きで体の向きを変え、私を見た。
「ごめんなさい。起こした?」
 私が言うと、彼は手を伸ばし、私の胸の間をゆっくりと指でなぞってから言った。
「恵美子。スリップを着なさい」
 私は笑顔で答えた。
「はい。幸人さん」
 
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#掌編小説


今作は一年前に書いた未発表の短編から、回想の部分を抜粋したものです。




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青豆ノノ
チップとデールの違いを知りません。

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