創作大賞2024 | ソウアイの星①
ああ、あの日は。
空はグレーで、体を抜けていく音は澄んでいて。
胸の奥に小さな不安を抱えたまま、きっと大丈夫って。
何を根拠に大丈夫だって思ったのだろう。
あなたはあの日、どんな思いであのグレーな空から隠れたのだろう。
(一)
スマートフォンを手に握ったまま、郁美と肩を寄せ合っていた。
開場したら、わたしたちは脇目も振らず最前列を取りに行く。できれば最前列の一番右端を。
マイクを握る彼の、左頬に並ぶ三つのほくろを愛している。それは、もちろんファンとしての愛だ。その三つのほくろは、わたしが思う〝推し〟のチャームポイントなのだから。
「結構押してるね」
ぼそっとつぶやいた郁美は、腕を組んで身を縮めて寒さに耐えている。隣に立つわたしも無意識に郁美と同じポーズで震えていた。
クリスマス前の冷え込む夜の七時過ぎ。大通りに面したビルの地下にあるクラブの前には、会場を待つ人々が列をなしていた。
わたしたちの前には数人が並んでいたが、スタンディングで最大収容人数が五百人というこのクラブなら、そう焦らなくても最前に行くことができる。
「なんかあったのかな」と郁美がつぶやいた。わたしは曖昧に返事をしながら、ずっと手に握ったままだったスマートフォンの画面に触れた。そして、ロック画面に設定しているCALETTeのアーティスト写真中央に写る朔也を見た。長めの前髪が顔半分を隠している。そのせいでチャームポイントのほくろは見えない。その代わり、真っ直ぐ前を見つめる彼の右目と視線がぶつかる。真っ白な肌は、いかにもバンドマンらしい。
郁美の視線から隠れて画面のロックを外し、朔也から二日前に届いたメッセージを開いた。これを郁美に見せるべきか悩んでいた。だけど、同じCALETTeのファンで、これからもきっと彼らを推していく同志なのだから、やっぱり伝えた方がいいのだろう。
わたしは決心して、開いたままの画面を胸に押し当て、郁美を見た。
「あのさ」
わたしが言いかけたちょうどその時、ビルの地下からスタッフが階段を上がってきた。細身で不健康そうなスタッフは、階段にかけられたチェーンを外し、外に出ると、急ぐ様子もなくもう一度かけ直した。
「やっと入れるー」
郁美は無邪気に笑った。わたしもほっとしてスマートフォンをバッグにしまった。
そのあと、会場を待つ人々の列に向けてスタッフが発した言葉を、わたしはほとんど覚えていない。ただ、このビルの隣にある家電量販店が放つ眩しすぎる光が、クリスマスの雰囲気を壊しているような気がして眉をひそめていた。わたしはこのとき、この日のライブが中止になったことにどこかほっとしていた。おそらくこの列に並ぶファンの中で、わたしだけがそんな感情を抱いていたと思う。
(二)
混み始めていたラーメン店で、運良くすぐに席に通された。ここで待たされようものなら、郁美の不満がついに爆発してややこしさを増すところだった。
「ねえ、流香は誰だと思う?」
席に座るなり郁美が言った。イライラしながらメニューを開いて、とりあえずビールで良いよね? と言って、卓上のベルを押した。
「体調不良って、誰が? もっと早く客に知らせるべきじゃないの? プロ意識あんのかな」
郁美の言葉に胸が痛んだ。メンバーの一人が体調不良ということで今夜のライブは中止になった。このことを客に伝えたスタッフの、乾いた話し方に郁美は苛立っているのだ。決してCALETTeのメンバーに対して腹を立てているのではないと信じたかった。
「あのスタッフはさ、会場のスタッフだったから、なんか言い方そっけなかったけどさ」
とわたしがすべて言い終わらないうちに「だから?」と郁美が睨んだ。
「関係ないじゃん。そうだったとしたら、CALETTe側のスタッフがちゃんと謝罪すべきだよ。うちら、この寒さで一時間も立って待ってたんだから」
わたしは歯痒い思いがあったが、何も言い返さず頷いた。
運ばれてきたビールは綺麗な琥珀色だった。だけど少しも美味しそうに見えない。ライブ後に飲むビールは、この世のどんな飲み物よりも美味しく感じるというのに。
「とりあえずお疲れ」と郁美が言った。
静かに飲み始めた郁美を見ながら、わたしもその液体をゆっくりと味わった。とても苦い。そして冷たい。
「ねえ、この後どうする? カラオケでも行く?」
郁美の言い方は酷く投げやりだった。わたしは、ジョッキを置いて口元を拭うと言った。
「ごめん。今日は帰るね。CALETTeのためだから無理してきたけど、本当は仕事残ってて」
郁美は「そっか」と言って、またメニューを開いた。
本当は今すぐにでも帰りたかった。朔也に電話をして、何があったのか訊きたい。だけど、郁美はまさかわたしと朔也が個人的にやり取りしているとは思っていないのだから、そういう態度を匂わすのは良くない。
わたしと朔也は、決してやましい関係にはない。朔也との出会いは、CALETTeが今の人気を博すよりもずっと前だったのだから。
朔也のことは今でも変わらず大切な友人の一人だと思っている。バンドが勢いづく中で、当然のように少しずつ遠い存在になった朔也を、ただ見つめていることがわたしにとってこの上なく幸せだと気がついたのはいつだっただろう。
相変わらず、ちびちびとビールを舐めているわたしをちらと見て、郁美はわざとらしいため息とともに、酷くネガティブな言葉を吐いた。
独り言だった、と思う。何に対して言ったのかも定かではない。だから、聞かなかったことにしよう。わたしは店の前の通りに一列に並ぶ車のライトを眺めた。
今夜でおわりにしよう。同じバンドを推していて意気投合したのはSNSでのやり取りだったからだ。実際に会って、最初に肌で感じたものは正しかった。わたしと郁美は、やはりなにかが決定的に違ったのだ。
わたしはスマートフォンのアプリから、郁美に三千円を送金した。
「ごめん。今日はもう帰るね。なんか体冷えちゃったし。んで、しばらくCALETTeから離れるから。ごめんね」
そう言い残して郁美の顔は見ずに歩き出した。郁美との距離ができていく中で、彼女がわたしの背中に何か言葉をぶつけたような気がしたけれど、この時、すでにわたしの頭の中ではCALETTeのサード・アルバムの一曲目が流れ始めて、郁美の言葉をかき消した。
あの頃の朔也の、弾むような歌い方が好きだ。この曲がラストを飾ったあの日、小さなライブハウスで見た朔也の横顔が忘れられない。あの瞬間は今も鮮やかで、時を越えてわたしの脳裏にたびたび蘇る。〝見つけた〟と思った。薄暗いライブハウスに、青空のように爽やかに輝いた朔也の笑顔を、わたしはそのとき、見つけたんだ。
ソウアイの星②
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