掌編小説|魅惑のマリアージュ |シロクマ文芸部
秋と本妻が膝を突合せている。二人が正座で向かい合う十畳の客間は替えたばかりの畳が青々として、独特な香りが部屋を満たしている。
私は彼女たちから二メートルほど距離を置いたところで、上等な赤ワインを注いだ頭の大きなグラスを持ち、くるり、くるりといたずらに回している。秋と妻が作り出すなんとも言えない空気をこの赤いワインにたっぷり含ませているのだ。そうしてワイングラスに鼻を寄せ、すすっと下手くそに芳醇な香りを体に取り込み、意味ありげにその色を観察した。次に、ゆっくりとその赤い液体を口に含む。すぐに飲み込むことはせず、今だ見つめ合うだけの二人の顔を交互に見て、ぐちゅ、と一度口の中でその液体を弄んだ。悪くない。〝好みの女のマリアージュ〟。
「いつも、主人がお世話になってます」
そう言って頭を下げたのは妻の百合子だ。さすがは妻。できる女だ。
「そんなあ、奥さま。わたしがしてきたことなんて、ほんのお遊び程度のことですのよ」
秋が笑う。まったく、「お遊び」だなんて嫌味な女だ。本妻の前で言うことじゃない。だけど、こういうところが可愛いんだ。少々性格は悪くても無条件に男から愛される女ってのがこの世にはいて、秋はそのタイプだから。出会ってしまった以上、仕方ない。秋と私は互いに引き合う運命だったのだろう。
「秋さん、今日はなにかお困りのことがありまして? こんな風に私たちが向かい合っているということは、互いに話し合わなければならないことがあるのでしょうから」
百合子が右に三十度、首を傾けて秋を見ている。百合子の首の角度には深い意味がある。これは長年連れ添った夫婦にしかわからないことだ。
「いいえ、なにも。わたしはただ連れてこられただけですのよ。ご主人が、〝特別なワインを飲みたい〟と仰ったので」
この言葉をきっかけに、私は口の中に溜めておいた赤ワインを飲み込んだ。十分に温められた苦味が喉を通っていく。
秋は下瞼だけを引き上げて笑ったような目を作った。百合子はその目をじっと見ている。秋と言う女は、実に表情豊かなんだ。
「あらいやだ、そうでしたの。それならそうと先に仰ってくださいよ。恒彦さん」
百合子が六十度まで首を傾け、私を見た。静かな声で語りかける百合子の左の首筋の静脈は青い。浮き立っている。
「綺麗だ」
思わず呟いた。
「ええ、きれい」
秋もその青い筋に見とれている。
それに気を良くしたか、百合子はゆっくりと傾きを戻すと薄く微笑んで、言った。
「秋さんには、せっかく遠方からいらしていただいたのですもの、今夜はたっぷりお楽しみくださいね」
妖艶な眼差しを私と秋に向ける百合子の、少し白いものが目立つようになった髪が艶やかに光っている。
「いつも恒彦さんの方から来ていただいているんですもの、たまにはわたしから会いに伺うのは当然ですわ、奥さま」
「まあ、そうとも言えますわね」
ほほほほほ。
ほほほほほ。
二人の声が重なる。その響きに突き動かされるように私は慌ててグラスを傾け、ワインを口に含んだ。
急ぎ飲み込んだその液体が、喉元から食道を走り、流れる。ああ、この感触が憎い。もっと味わいたかったのに。しかしなんと余韻の残る芳醇な香り。体温が上昇し、体が紅く色づいていくのを感じる。
「あら、あなたったら。随分と紅くなって。まるで赤だるまじゃない」
「いやね、奥さまったら。ふふ。だけど、本当。赤鬼みたい」
ほほほほほ。
ほほほほほ。
ごくん。ごくん。
二人の笑い声が消えないうちに、私は急いでワインを二口飲んだ。なんてことだ、実に美味い。タイプの違う二人の女が、確実にペアリングし始めている。このことが、ワインの味に変化をもたらしているんだ。
二人を同時に眺めながら飲むワインはますます重厚な深みを持つ。こうなると、もっと二人の重なりを感じたくなる。出来れば、溶け合うくらいに濃厚な重なり……。
「君たち、あれをやってみてくれないか。ほら、二人羽織ってやつ」
はあ?
はあ?
ごくん。
私が気を利かせなくとも、二人は不思議なくらいシンクロし始めていた。
私はと言えば、早いペースで酒を煽ったせいか、少々視界が狭まってきていた。
秋と百合子。二人はぐらぐらと揺れながら次第に近寄り、私の視界の中で重なり始めた。
「そのままそのまま!」
ついに視点の先でぴったりと重なってひとつになった二人を見ると、私はグラスに注ぐ時間も惜しくなって、ボトルからワインを摂取していった。
ごくん。ごくん。ごくん───
一気にボトルの中身を飲み干した直後、大きな衝撃が全身を襲った。ふらついた拍子に思い切り足を滑らせた私は、気がつくと畳に仰向けになり、古臭い昭和のペンダントライトを見上げていた。一つのはずのライトは二つになり、あやしく揺れている。
「この人、派手に転んだ上に寄り目になってるわ」
あはは。
あはは。
二人が笑う。
「まったくおかしな人。私たちをあてにワインを楽しむなんてどうかしているわ」
「ほんと。悪趣味な旦那様」
「ねぇ、秋さん。貴女とは仲良くなれそうな気がするの」
「奥さま、私もそう思っていますわ」
行きましょうか。
行きましょうか。
私を置いて去って行く二人の足音を聞きながら目を閉じた。
これでよかったんだ。秋と百合子。私の愛する女たち。楽しそうな彼女らの笑い声は、鳩尾からせり上る私の不快感を和らげてくれる。
背中に手を差し込み、割れた瓶の一部をゆっくりと引き出した。すると、瓶に触れた指先から血が滴った。
目の端に、青い畳に広がる尋常ではない量の赤い液体を捉えた。これが赤ワインではないことに、本当に二人は気づいていないのだろうか。
徐々に侵食していく赤色に、秋の赤い爪と百合子の真っ赤なルージュを想う。
離れた部屋から、二人がグラスを合わせて「乾杯」と言ったのが聞こえた。
「秋と本」、二作目です。
よろしくお願いします°・*:.。.☆
一作目↓