
短編小説 | 眠らない
雨。
三人がけのソファをベッド代わりにしている。薄い毛布にくるまって目を閉じる。
足を伸ばしてもソファの端から端にすっぽりと収まる僕のからだは、同じ年頃の同性と比べて大きいのか小さいのか、よくわからない。
人に会わなくなって、人と自分を比べることもなくなったら、自分のことがわからなくなった。
目を瞑り、ソファに収まって、耳だけは知らない誰かのことばを聞いている。誰かは恋愛について語り、誰かは今の世の中について語っている。全部、嘘かもしれない。
世の中が変なウイルスにおかされて、誰も彼も布で顔をおおって、猜疑心剥き出しの目をぎょろつかせていた頃。こんな時だから、一番役に立ちそうなものを捨てようって決めた。
怪しいチラシの番号にかけた。
怪しい男がトラックでやってきた。
エレベーターのないマンションの3階。
僕の力では廊下まで運ぶにも苦労した大きなテーブル。男はそれを、一人で軽々かかえて階段を降りた。
男は布で顔を隠していなかった。
僕は男に近づいて礼を言った。
僕と男のやり取りを見ているものはない。
世の中の誰もが、家の中に隠れていた。
Quick Quick Quick Quick Slow
テーブルが無くなってできた僅かなスペースでおどる。
どこかの誰かが世界に投げた動画を見る。タンゴの歴史も情熱も、名前の由来すらも知らない僕は、これがタンゴだって信じておどる。
Slow Quick Quick ,
Slow Quick Quick, Slow Quick Quick
画面の向こうで、知らない誰かも踊ってる。
なんでもいいんだ。全部、嘘だ。
孤独を知らない人達が、こぞって孤独を知ったような顔をしたあの頃。
僕は部屋の中でタンゴを踊った。
やがて何かから開放された人々が街をうろつきはじめた時も、僕だけは、かつてテーブルがあったスペースでタンゴを踊り続けた。
違うよ。そんなんじゃない。
皆知った顔するなって。
何年経っても僕は、ソファにぴったりと収まるからだのまま、テーブルのあったスペースだけで、いつまでもタンゴを踊っていたかったのに。
明日から、君は、「セイジン」だよって。
何も変わらなくても幸せだった僕は、いつの間にか「セイジン」になるって。
僕は、僕だけが知らないうちに、人に成ったの。
Quick Quick Quick Quick
Quick Quick Quick Quick
Quick Quick Quick Quick
Quick Quick Quick Quick
まわりは大人になった。だから、同じように僕も大人になるんだって、そんなのは嘘だ。
Slow Slow Slow Slow Slow……
僕は眠らない。
僕は眠らないから、セイジンにならない。
ソファからはみ出すほど大きくもならない。そんなのは、嘘だった。
雨も降っていない。
僕は眠ったまま。
[完]