「そうはいっても、親子だから」という感覚について
本当にピンとこない、のだ。
「そうはいっても、親子」という感覚が。
機能不全家族、というのは、いったいどういうものなのか。
それは、自分が成長して大人になり、結婚して家庭をもって、子育てしていると、徐々に「じわじわ」感じていく。
簡単にまとめると、
「健全なやりとりがわからないです。正解ください。」
という感じだろうか。うん、本当にそんな感覚だ。
職場などでの「ちょっと距離のある第三者」とのやりとりは、なんとなく世間で見る「お手本」を見ながら学んだり、真似したりして、学習していくので、なんとかやっていける。
それが、家庭内のやりとり、というのは「リアルなお手本」を見たことがないんだよなー。各、家の中でのことなので、当たり前なんだけど。
たまに、お友達の家に泊まりに行ったときに感じたこと…
「え、ご飯食べるとき、お父さんとお母さんって、こんなに話すんだ」
とか、
「文句言わずに食べなさいよーーー!」
「もー、あんたって本当にーーー。」
っていうちょっと温かいお母さんのセリフとか。
テレビで見るのともまた違う、なんかリアルな生活感。
なんだろう、「何を言っても、結局、受け止めてもらえる」みたいな感じ?(もちろん、そうではないおうちもあったけれど。)
そんな雰囲気に憧れて、見よう見まねで「そうなりますように」「健全なやりとりができますように」とやってきたけれど、ちょっと違ったらしい。
最近、子供からご指摘を受けた。
子供が社会人になれば、もう「健全な家庭とは」という悩みはなくなるのだと思っていたら、実は全然違った…という出来事があった。何歳になっても、「ずっと前から我慢してた!!」系の話は出てくる。あのときはああだった、このときもこうだった、お母さんは何もわかっていない、と。底なしに。
という事実に、今、結構打ちのめされている。
そんな過去まで遡る?!ってくらい遡って、あれこれ引き出してくる。
そうか、そうだったのか…(撃沈)
じゃあ、どうすればよかったのだろう。
健全な親子関係、やりとりの答えは?
と友人に相談してみたら、「どこの星の話だろう」というくらい、親子の会話の温度というか、やりとりが違った。
「子育てに、正解なんてないよ」
というのも、また正解なのは重々承知なんだけれど、それにしても…
うーん、その参考書もってなかったなー。
友人たちが言うところの「そうはいっても、親子だから」という部分。
これがまったく自分の胃腸で消化されない。
ああ、苦しい。
「そうはいっても、親子」
私にはわからないけれど、我が子には感じてほしい感覚。健全な感覚。
この「わからないけどわかって。」矛盾みたいなもの、これとどう向き合えばいいのだろうか。