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探していた「何か」はどこにもないとわかったとき、見えた世界線。

久しぶりにあった友人と、ランチ→カフェでケーキ、までフルコース。
甘いとしょっぱいで満たされた帰り道、ふと降りてきた言葉、それは
「何か、はどこにもなかったんだ。」


ずっとずっと、「何か」を探していた。
手に入るのではないか、と期待して探した。
目に見えない「何か」。
その「何か」の正体は、もやもやしてて、つかめなくて、自分でもわからなかった。

その感覚は、幼いころに「きっと、明日こそ、お母さんは私に優しくしてくれるかもしれない。」と叶えられない願いを毎晩期待した、あのときの気持ちと似ている。そんな明日は来ないのに。

そうでもしないと、生きていけなかった幼い私。
現状が苦しくてつらいより、未来がないことのほうがつらいのだから。
きっと手に入るはず、と期待し続けた。小さな手を合わせて祈り続けた。「優しいお母さん」が現れるように。

その名残が「何か」を探す癖なんだろうと推察している。そんな気持ちから、自分の(ときに他人の)気持ちやコンディションを無視して振り切って、血を吐くまでやる、努力する、というスタイルが完成した。

彼氏や夫…過去、何人にも似たようなことを言われた。
「何を必死に探しているのか、もう十分じゃないか。」
血を吐くまでの努力と引き換えに、私からしたら「おまけ」みたいについてきた結果…成績とか実績、肩書き、給与…をみた彼らはそういっていた。

しかしそれは、「あなたには一生手に入らないのだから、探すのをやめろ」「あきらめろ」と言われているような気がしてずいぶん反発した。それをやめたら、まるで「優しいお母さんなんていない」と認めてしまうのに等しかったんだろう。

そんなことを認めてしまったら、何を希望に生きていけばいいのか…何歳になっても、その幼い私に戻ってしまうんだろう、私は「何か」を探すのがやめられなかった。

一番欲しいものが(なんなのかわからないけれど)まだ手に入ってない、のだから。

ところが、これまで何度か書いた前世療法(ヒプノセラピー)の効果は、じわじわとやってくる。
この探していた「何か」は実はもともと、ないんじゃないか、と思えてきた。あると思うから苦しかったのでは、と。

つまり、「本当はあるんだけど、あなたには手に入らないからあきらめなさい」ということではなく、「もともとない」ということ。もともと「何か」なんてない、ということ。

そんなこといったら、世の中には「憧れたような、優しいお母さん」は、よその家にはいるじゃないか、ということになるけれど、その憧れすら、生まれてからあと、いろんな情報で思い込んだことなのではないか、と。

ここについては、なかなかうまく言語化できていない。
ただ、過去のように「もう十分じゃないか」といわれたときに、とてつもなく悲しくなることはなくなったし、反論する気持ちもなくなった。
だって、最初からないんだから、何も求めなくていい。スガタカタチも見えないようなものを永遠に探す、という効率が悪い(無駄なこと)をしなくてよくなった。

前世療法って、不思議。

あきらめでもなく、強がりでもなく…ただ、シンプルに、アサーティブに「ない」と感じたときに、一気に人生はシンプルに楽しくなってきたのだ。



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