夫を通じて自分を知るということ
先日、話題の映画
「ドライブマイカー」
を見た。
「どれだけ理解しあっているはずの相手でも、どれだけ愛している相手でも、他人の心をそっくりのぞき込むなんて無理です。自分が辛くなるだけです」
「でもそれが自分自身の心なら、努力次第でしっかりとのぞき込むことはできるはずです」
「結局僕らがやらなくちゃいけないことは、自分の心と上手に正直に折り合いをつけていくことじゃないでしょうか」
「本当に他人を見たいと思うなら、自分自身を深く、まっすぐ見つけるしかない」
映画の中でこんなセリフがあって、私はその言葉をひとつひとつ噛みしめていた。
夫婦と言えども相手の本当の心のうちを知ることはできない。
でも、相手を通じて、自分を見つめることはできる。
私は長く一緒にいる夫のことをあまり知らない。
これだけお互いに自分をさらけ出していても、2人が出会うまで別々に生きてきた年月が長くて、育ってきた環境がどのように相手の性格を形成してきたかを知らないから、夫と話し合う中でなぜその考えに至るのか、深掘りしていくと今まで知らなかった夫の側面を見ることができる。
生きてきた経験値が違いすぎて、話しても話しても、相手の事が良くわからない。
だから忘れないようにメモを取る。
夫と話す中で物の見方や価値観が変わったり、夫から影響を受ける私は、自分でも面白いほど成長している気がする。
そして、人は忘れる生き物だ。
私が夫の事をどれだけ想っているか、夫が私のことをどれだけ想っているか、私は日々の忙しさにかまけてすぐに忘れてしまう。
だから、覚えていたくて日記をつける。
夫から受ける自分の感情の変化を書き留めることで、私は何に怒りを感じ、何を大切にしていて、何を求めているのかを知ることができる。
夫は私の壁打ちのような存在であり、鏡のようでもある。
夫を通じて私は自分を知っていく。
夫を愛することは自分を愛する事でもある。
だから夫といるときの私がどんな状態かで、今の自分を知ることができる。
人を愛する事がどんなことなのか、私にはまだわからない。
この状態が愛なのかもわからないし、愛ではなく執着かもしれない。
私のこの感情も、誰にも理解できない。それはどんな人でも同じだ。
夫を愛することは、一生を通じて誰かを愛することを学んでいく私のテーマでもある。
「愛されるよりも愛したいマジで」
という、昔流行っていたアイドルグループのフレーズを時折思い出す。
本屋では「人から愛される方法」のノウハウ本がたくさん並ぶけど「人を愛する方法」の本は少ない。
愛されるよりも愛する方がうんと難しい。
仕事で疲れて帰ってきた夫が家でホッとした顔を見せること。
子どもが寝たあとの他愛もないおしゃべりの愛おしさ。
夜、寝る前にする夫へのマッサージ。
言葉で、態度で、触れることで愛を伝える。
全てのやりとりが愛を伝える行為なのだと感じる。
夫を労わることは自分を労わることと同じだ。
ひとつひとつを丁寧に扱って一緒にいられる事を幸せに思う。
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