「人生のようなカレー」と29年前の自由研究
いつもそうなのだけど、私の場合「こういう設定にしたら新しいだろう」とか、新奇であることを狙って設定やストーリーを作らない。
題材やモチーフが語りかけてくるもの、そこから自然発生するものを注意深く追っていたら、結果として表面的には奇抜な設定になった、
というのが本当のところで、その順番というか過程が大事だと思っている。
表面だけで奇抜さを狙って作ったものは、浅い伝わり方しかしないから。
前作の「レペゼン母」もそうで、変わった設定を書こうとしたのではなくて「自然とそうなった」という感じだ。
新刊「キッチン・セラピー」でも、やっぱりそれは変わらない。
いくつかの料理や食材が出てくるけど、その料理が持つ性質を真摯に見つめていると、帰結としてこういう物語になるな、というものを書いた。
「こんな料理小説読んだことない!」
と編集長が言ってくれたのは、たぶんその結果であるような気がしている。
料理を題材にした小説やマンガがあふれているなかで、
「新しい価値を提供できるんやろか?」と最初、ちょっと心配していた向きもあった。でもそれって、
「カレーはみんな作ってるから私が作ってもしょうがないんじゃないか」
と心配するのと同じようなことやったなあと、書き終わって思う。
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