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宇佐見りん「推し、燃ゆ」を読まないで

埼玉西武ライオンズ南郷キャンプで行われているプレシーズンマッチ、千葉ロッテマリーンズとの一戦を視聴しながら書いている。タイシンガーブランドン大河という、とても長い名前のアメリカ系ハーフ日本人選手がロッテの松永投手の甘くやや浮いた球を流し打ちでライトスタンドにホームランを打った。ブランドン選手はルーキーでイケメンだ。高知県にあるこの球場で、同じく西武ライオンズの岸潤一郎選手がセンター前にヒットを打つと観客から大きな拍手が飛んだ。24歳の岸選手は高知の明徳義塾高校で甲子園を沸かせた選手でありながらプロ野球には進めず「消えた天才」と言われていたそうだ。若いイケメンの新戦力が活躍し、ファンもこれからさらに付いていくだろう。

「推し、燃ゆ」ではなく「推し、萌ゆ」のほうがタイトルにはいいのではないか、と最初に思った。最初の一行が「推しが、燃えた」らしいので炎上という意味ではすぐにわかるし、この作品が英語に翻訳されたとき、MOYUとはMOE(萌え)と関係あるのか? と日本文化に詳しい海外の人なら確実に思うだろうからだ。タイトルがそのままローマ字表記でなく、別の英単語に置き換わるならそれはもう議論の外だろうけれど。

らしい、と書いたのはそう聞いたからで、実際私はこの作品を読んでいない。NHKラジオ「飛ぶ教室」という高橋源一郎がパーソナリティーを務める番組でこの作品が紹介され、そう聞いたからだ。宣伝しておくと、私は毎週金曜21時5分頃から始まるこの番組を聴きながらツイキャスというSNS配信をしている。私の肉声を聴きたければぜひツイッターで行う告知から聴きに来てほしい。その番組内で高橋さんが橋本治さんとの話を引き合いに出し、(高橋)「名作は最初の1行でわかるよね」(橋本)「いや名作は読まなくてもわかる」というやり取りから、この作品の最初の1行で名作だと分かったと言っていた。実は私自身、この芥川賞受賞作品が掲載されている文藝春秋3月号を買って、読む気でいた。しかしその前に図書館から借りていたドストエフスキー「地下室の記録」を読んだあとにしようと思ったのだ。少し手元に置いて、「熟成」させてから読もうと。

「熟成」肉じゃないんだからw という指摘はもっともだ。時間を置いたって、紙に記された文字が変わるわけじゃない。ただ、本を手にしてすぐにページを開く場合と、ページを開くまでに時間をかけ「さあ読むぞ!」と覚悟を決める必要がある作品がある、と私は勝手に思っている。もしくはそのかけた時間の間に自分の身に何か変化があり、その作品に向き合うもしくは向き合う必要があると決定する態勢が整うような……大げさだが、私が読書する場合、こういう時間が必要なことがある。「推し、燃ゆ」は時間が必要に考えていたのだ。

しかし……「地下室の記録」は非常に肩透かしな内容だった。

p31(「新訳 地下室の記録」集英社文芸単行本、亀山郁夫訳)
自分が金輪際悪くないのに、まるで図ったかのように、ひどい目にあわされることがよくあった

40歳の独身男が600万円の遺産を手にして地下室に「引きこもり」、自己正当化の心内語をひたすら吐き続けるという内容にしか思えなかった。確かにそれをずーっと300ページくらいだろうか、吐き続けるエネルギーは凄いんだけど、今の私にとってそれを50ページも読む優しさはなかった。もちろん評価されている作品だし、文豪と言われる世界的な小説家なので私の理解力が足りないのだろうけれど、はっきり言って「もう無理!」と投げ出してしまった。

じゃあ「推し、燃ゆ」を読めばいいじゃないか、となりそうなのだが、そうはならなかった。正直に言うと、お腹いっぱいだったのだ。こう書いて朝と昼兼用の緑のたぬきを食べた後、今の自分にも便意があるのを思い出した。カップラーメンといっても、自分の場合、まず粉末スープは取り出して捨てる。替わりにニンニクチューブとショウガチューブをひねり出す。そしてコンビニで売っている「くらこん  さける昆布」から一つ取り出して乾麺の下に埋める。生卵を割り入れ、レトルトのシジミみそ汁(できればアサリがいいが無かった)を乾麺の上に載せる。乾燥ワカメをこれでもかと振りかける。緑のたぬきに付属しているかきあげを置いて、その上に絹ごし豆腐を包丁で細かく切った上に、めんつゆとお酢をかける。今日は梅干しを一個加えた。鰹節を入れ忘れた。そこでようやくお湯をかけ、ラーメンどんぶりでフタをする。

なぜこんな話をしたのか。かなり汚い話をしなければならない。人生で初めてのトイレの便器の中の話だ。排泄物の話だ。ソレが30時間にも渡って鎮座していたのだ。なぜ水の中から動かないのか不思議だった。まるでソレが鉄ででもできてるんじゃないかって思った。もちろん便器を洗うブラシで押したよ。押した分は動くのだけれど、それ以上流れないのだ。排出口からソレがじっとたたずんでいるのが見えた。もしかしたらそこから先に長い年月をかけて自分の排泄物が溜まり続けていて、ついに便器のそこまで埋まってしまったのではないか、と想像するくらいだった。しかし便器から水があふれる事態にはならなかった。水の中にいるので、匂いも気になるほどではなかった。私は水を流し続けていた。ソレが24時間を過ぎても居座り続けているのをみて、奇妙な感覚に陥った。愛着に近い感情。それはかつて間違いなく自分の肉体の中に存在し、一体化していた。自分が食べたものを象徴するモノだ。それが自己主張しているのだ。私はソレを無慈悲に流し去っていいのだろうか……。と、先に触れたように、30時間ほどで唐突にいなくなってしまった。日常に戻ったのだが、それは喜ばしいことなのだが、どこか寂しい気持ちになった。

なぜこんな話をしたのか。私は一時期自分の作品を「排泄物だ」と考えていたことがある。様々な経験を消化し、吐き出した時点でそれは私のモノではなく、作品として一人歩きする。それを評価するのは「どうぞご勝手に」という訳だ。投げやりな感情か、捨て鉢な感情か、それよりも完成したときの快感充実感、書いていく過程の苦悩、いきみ、そういう部分からのイメージだったか……結局は誰かの意見を拝借したのだろうけれどw

一つの物事には、複数の「意味」もしくは「意味付け」があると考えている。「推し、燃ゆ」を読まないで、というタイトルはもちろん、読むな、という禁止ではなく読むことなく感想を書くという意味であることはここまで来たらわかっていただけるだろう。食わず嫌いに対して誹りがあるのはもっともだが、「食わず好き」というのは否定されるほどのものではないのではないだろうか? お腹いっぱい、と私は述べた。「飛ぶ教室」のなかで高橋源一郎は地の文を長く紹介した。そして「100点」をつけた。私は現代日本で生きている小説家のなかで高橋源一郎が最高だと思っている。最高の人が100点をつけた作品を、読まなくても100点に違いないのだ。ただ、この「100点」がクセモノ。名作っていうのは120点なのだ、と彼は釘をさすんだ。そこが彼らしい、というか、小説家だからこそわかる「意地汚さ」なんだよね。実はこのタイトル「読まないで」にも、禁止の意味もほんのちょっとだけある。そこは私の嫉妬心だ。明らかに。ーーそこで私は何をしたのか?

東京は天気がいい。しかし私の部屋は少し寒い。ジェイソンウインターズティーを温めて、一服する。

120-100=20

私は、その20点を求めた。それは、ここにあるのではないか、と思ったのだ。

殺し屋のような詩たちが
あたりにすわって
おれの窓を射って穴をあけ
トイレット・ペーパーについて熟考し
競馬の結果を読み
受話器を
はずす。

殺し屋のような詩たちが
おれに訊く
いったいなにをしているんだ、
そして
決着がつくまで
射ちたいかい?

落ちつけよ、とおれはいう、
勝負は
時の運さ。

長椅子(カウチ)の南端に
すわった詩が
近寄る
いう
あれ
に向かって射精しろ!

落ちつけよ、相棒、おれには
あんたのための計画が
あるんだ。

計画だって? どんな
計画だ?
「ニューヨーカー」さ
相棒。

そいつはピストルを
しまう。

ドアの側の椅子にすわった
詩が伸びをし
おれを見つめる、
おい、でぶ、あんた
最近、ちょっと怠けている
な。

うせやがれ
とおれはいう
このゲームを仕切っているのは
だれだ?

このゲームを仕切っているのは
おれたちさ
と殺し屋
全員がいう
ピストルを取り出す、
仕事に
励めよ!

そのとおり
さあ
どうぞ。

この詩は
冷蔵庫の
上に
すわって
ビールのキャップを
はじき飛ばしている
奴だった。

それでいま
おれはそいつを
どかした
するとほかの全員が
武器をおれに向けながら
まわりにすわって
いう—―

つぎはおれだ、つぎはおれだ、つぎは
おれだ!

思うにおれが
死んだら
残りの連中は
ほかのあわれな
野郎を
飛び越えていくだろう

「タフな相棒」というこの詩は、チャールズ・ブコウスキーの詩集(新宿書房)、

Play The Piano Drunk Like A Percussion Instrument Until The Fingers The Begin To Bleed A Bit

「指がちょっと血を流し始めるまでパーカッション楽器のように酔っぱらったピアノを弾け」という長いタイトルの詩集のいちばん最初に収録されている詩だ。この長さはライトノベルにある「俺の妹がこんなに可愛いわけがない」とか「魔術師の修行中に姉が転生して萌えた」みたいな上手くまとまる才能がないことをひけらかすような長いタイトルになってしまった、という感じじゃなくてクールな長さをもったタイトルだ。図書館でブコウスキーを探していたらこの詩に巡り合った。訳者中上哲夫が、その訳者あとがきでも自嘲しているように、この人の詩は解説すればするほど、真実から遠ざかるようなところがあるのであまり文章で評価はしたくない。というより、うまく言葉にできない、というのが正直なところだ。なぜなら私がこの詩を読みながら心掛けたのは「深く考えず、この文字たちの羅列を受け止める」ことだったからだ。そしてそこから私が消化したことを、その感情を大切にしたいと思ったのだ。その感情は、私が書いたこの文章すべてに通底している。だからこれを読んでもらえたら、そこで何となく感じたことがあれば、それが私の感情だ。ヒントは「排泄物」だろうかw

20点を埋められたという確信は実はない。他にも言いたいことはある。例えば、「飛ぶ教室」で別の回で高橋源一郎とゲスト穂村弘が語った「短歌はモヤモヤした現象に言葉を与えるもの」について、私が「小説とはモヤモヤするその感情そのものを一篇すべてを通して読者に表出したもの」と導きだしたことだったり、今日明日にでも大地震が起こるような予感があることとか、緊急事態宣言が解除されてもまた感染者が増えるのだろうか、とか……。ただそういうことは、また何かコトが起こってから、別の機会に記すことなのだろう。



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