ヴィルヘルム・マイスターの修業時代 / Johan Wolfgang von Goethe / タイピング日記053
小説でも戯曲でも、吾々がみるもは、人間の性質と行為である。両者の差別は単に外形にあるものではない。即ち一方では、人物が話をし、他方では、通常その人物について語られるというような点に、差別が有るのではない。だが、情けないかな、多くの戯曲は対話体の小説に過ぎない。これでは、戯曲を書簡体では書くこともできなくはない。
小説では特に心情と事件とが現されなければならない。戯曲では性格と行為とが現されなければならない。小説は徐々に進行し、主人公の心情が、どんな方法によるにせよ、全体の急速な進展を引きとめるのでなければならない。戯曲は急ぐべきもので、主人公の性格は終局に向かってまっしぐらに進むべきであって、ただそれが食い止められているのでなければならない。小説の主人公は受動的であるべく、少なくとも甚だしく能動的であってはならない。戯曲の主人公には活動と行為とが望ましい。
小説では偶然の働きを許すことはできるが、それは常に人物の心情によって導かれなければならない。これに反し、人間の関与をまたず、独立した外的の事情によって不測の破局へ人間を駆って行く運命は戯曲のみに存在する。偶然というものは、愁嘆場を引き起こしはするが、悲劇的な情態を作り出すことはできない。これに反し、運命は常に恐ろしいものでなければ成らない。そして、罪の或る、或いは罪のない、互いに独立した行為を、不幸に結びつけるような場合には、運命は最も高い意味で悲劇的となる。
こう言う考察は再び、あの驚嘆すべきハムレットと、この作品の特性との考察にもどった。みんなは次のように言った。この主人公は元来心情を持つだけである。また彼に起こってくるものは事件だけである。従ってこの戯曲には小説のように間ののびたところがある。しかし全体の結構は運命の描くところであり、全曲は恐ろしい行為から出発している。従ってこの戯曲は最高の意味での悲劇的であり、悲劇的結末に終わるほかないのである。
-Johan Wolfgang von Goethe-
「ヴィルヘルム・マイスターの修業時代」
第5巻第7章から
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