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冒頭で出会うVol.2_鉄棒
頭上に砂場がある。足元に青空が広がっている。真夏の太陽の熱でジリジリと肌が灼け汗が噴きでる。濡れた髪の毛を伝って折った膝を軸にして揺れる遠心力で、頭上の砂場に向かって昇っていく。目をつぶる。蝉の声が耳鳴りのように聞こえる。
「バッチコーイ」背中の校庭から声が聴こえる。
「センパーイ」
遠くから篤志の声がする。ぼくは昨日、野球部を辞めたんだ。もう関係ない。
「センパーイ、取ってくださいよー」
篤志の声が近づいてくる。
「うっせえな」
ぼくは体を反らせてくるり、砂場に着地した。砂の窪みに転がる軟式ボールを掴んだ利き手を踏まれた。カキーン。乾いた金属音が聴こえる。ぎゅ。手の甲はさらに強く踏みつけられた。顔をあげると、腕組みをしたマネージャーが、いや昨日までマネージャだった円が、ぼくを睨んでいた。
書いてみて感じたこと、
「冒頭だけ」といえど、結局は(きっとラストまで書き終わってみれば、)「冒頭は物語全体を暗示している」と思いました。
長編になれば、「冒頭」は「プロローグとして(別の時間帯や、ラストになってから)再構築できる」と思った。ですが、少なくとも、掌・短編(あるいは中編くらい)においての「冒頭」はある程度の、物語全体がイメージできてないと、まず筆が動かない。ただのイメージの断片であるならばそれは構わないんだけど、「物語が動く導入部分」となると、話は変わってくる。そんな気がしました。
となれば、確かに、元師匠が言ったように、
百点満点の冒頭を描くまで根を詰めず、「書きかけの冒頭」を「置いておく」ことは有効な手だ。冒頭を納得するまで練ったらキリがない。井伏鱒二の「山椒魚」のように一生改稿することになってしまう。
ある程度、時間が経って、途中で切り上げました。〜蝉の声が聞こえる」まで凝りすぎた。ので誰かのセリフを入れて、置いておく。その手段は有効だ。
ここでは、その都度、「完璧な出会いの冒頭」を目指すのではなく、冒頭の千本ノックです。まず、種類、その煮詰め方(煮詰まりすぎない所での引き際)の体感練習です。ノックでバットの握りの感触、芯に当たった感触、スィングの角度、軸足の置き方、利き手でない方の引きつけ方とか、ですね。
ぼくの備忘録、
❶散歩のときの安直なアイデア(イメージ)だったけど、実際に書きはじめてみると「話が動かない。あ、失敗だったな」と後悔。
❷行き詰まって、無理やりにセリフの「センパーイ」を入れ込んだら、急に物語(マネージャーが手を踏んづけるシーンまで一気に話、状況、場面)が動いた。これは元師匠のいう転筋法だろう。実感した。
❸でも結局、短編の純文学って、連綿とした❷の展開に他ならないんじゃないかと思った。また例になるが、元師匠いわく、村上春樹は主人公の「意識の展開」=「意識の状況の展開によって物語の場面の展開」が行われている。ぼく個人としてはそれだけはやらないで、主人公が見たモノ、触ったモノ、反応したモノの物語のなかの実世界の状況展開で物語が運んでいければと思った。
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