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作家の血と土地、故郷について、

リンクしようと迷った。連絡があればリンクは外す。思ったことを徒然に。

作家、とくに小説家にとって生まれた場所、は一生つきまとうことになる。

地縁と血縁はどうも逃げられない呪いだ。

みんなが大好きな村上春樹の生まれは、一般的な中流階級だ。両親が国語の教師で、日々、「源氏物語はどうだ?」「伊勢物語は読んだのか?」耳にタコなほどいわれて育った。両親の「国語」から逃げだすように、港の古本屋へいっては英語の、厖大な量のペーパーバックを原書で、よみ漁った。

村上春樹少年は「国語」からできるだけ遠くに離れたかった。それが彼の作家人生を決めた運命だった。処女作「風の歌を聴け」は一旦、英語でかいて、日本語にかき直したりした。皮肉にも(みんなが大好きな)小説家としての「村上春樹文体獲得」の一助を担ったわけだ。

川上弘美は、子供の頃から内田百閒をこよなく愛した。妖怪だいすきそんな女の子だ。が、5歳のとき家庭の都合で海外へと移住、向こうではSF研究会に。日本に帰ってきて、理科の教諭。離婚後、どうしても作家になりたくて、内田百閒とSFをフュージョンさせた「神様」を仕上げた。

ぼくは三浦哲郎さんの短編は好きで、彼の人生は凄まじい。兄弟のほとんどが蓄電、自殺で、短編「みのむし」(ラストシーンの首吊りが想像できるだろう)は、やはりそういう人生経験がものをいう。

作家はそれぞれの文脈がある。まさに生まれがそうだ。

さて、マクラはここまで。

「Yankee」という言葉がある。簡単に説明する。

1 米国人の俗称。 元来は米国南部で、北部諸州の住民を軽蔑的によんだ語。 国境を越えてくるメキシコ人など。

2 日本にいる不良青少年。 髪型やファッションなどで、米国の若者の風俗をまねた青少年をさして呼んだ語。

メジャーリーグに「ニューヨークヤンキース」がある。あと「ニューヨークメッツ」だ。日本で言えば、「東京読売巨人軍」と「東京ヤクルトスワローズ」だ。

ニューヨークが地元の人はヤンキーという。だがニューヨークで働く人は「ニューヨーカー」と呼ばれる。

どういう違いか?

収入か? 仕事の職種か?

ぼくの祖父(現在、他界)は、北関東の、群馬県の中堅都市で、市議会議員を二期務めた。昭和4年生まれの小学校卒だ。祖父はヤンキーだ。

祖父は地元では有力者だった。電話をかけれ「おい、お前の兄貴だ」と受話器の向こうで話していた。5歳のぼくは首を傾げていたものだ。小さなころ、祖父は尋常小学校の3年生で6年生の教室に飛び級していたほどの頭がよかった。自分では東京帝国大学に進学したかった。だが曽祖父に「農家に勉学はいらない」と一蹴され、諦めかけたときに「旧前橋高校」が「陸軍士官学校」で「お国のため、零戦に乗るため」に、入った。宮崎キャンプ場で、零戦の運転練習が終わり、さあ突撃だというとき、玉音放送。

それからは地元の農業委員会でせっせと、地元の世話役だった。文字も書けない、読めない人に、役所の提出物、時代が進めば、公文書、などを社会労務士などに斡旋。世話役だ。ぼくが高校のときに町の区長などに担ぎあげられた格好で、出馬、下から二番目でぎり、当選。

死んだ祖父の肩書きは、勲四等だ。だがヤンキーである。

地元の、縁故、地元のつながりのなかでしか自分の価値を見出せない。地元のつながりのなかでしか生きられない。文学的でなく経済的にいえば地元から抜け出せない経済貧困弱者。それを日本語ではヤンキーと呼ぶ。

小説で、あるいは映画で、田舎が舞台で、(季節は夏だったりして)若者が、どうも先輩に人生をメチャクチャにされる。悪道から抜け出せない路地に生まれ、切っても切り離せない血なまぐさい血縁の物語。

物書きの原点であり、いくら輸血して入れ替えようとしても抜け切らない血、それが作家の原点だと思う。

最初から、故郷を出たくない(ぼくの、祖父、母、父、妹がそうだ)。出てみたが戻ってしまう(親類にいる)。東京や大都市に出たきりになる。あるいは海外にいってさまよいつづける。色々いるが、生活スタイルはいくらでも変わるが、生まれは、変えられない。

それは病気もそうだ。受け入れるしかない。ですね。

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蒼井瀬名(Aoi sena)
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