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店の雰囲気、男の緊張、オクサンのキャラ(GM全記録)
11840文字+有料
ミホと入れ替わりで店内に入るとディシャップではヤマさんが取り皿に黄色い粘土のようなものを練っていた。
「それはなんですか? 」
男はメモ帳を開いて訊(たず)ねる。
「マスタードだよ」とヤマさんは言う。
「和からしですね」男はメモ帳に記した。■十時五十分。和芥子練り。と男は記した。
「これは決まった時刻はないよ。手が空いたときでいいんよ」
ピッチャーの置きかたはヤマさんが教えてくれた。もち手の上部に◉印があるのとないのがある。
「それね。◉印はカウンターだよ。あとは座席だ」
■十時五十分。氷水が入ったピッチャーを卓番に置いていく。◉印はカウンター席用。と男はメモ帳に書いた。
「アンタ、なにをコソコソと書いているんだね。ウチでそんなことやっても意味ないよ」
オクサンは勝手口で仁王立ちをしている。
男はメモ帳をポケットに仕舞った。
「嫌だねあの子は、背中まるめてメモ帳なんか構えてもって。コソ泥みたいに見えるよ。ウチのメニューでも盗む気でもあるのかいってヤマちゃん。なんとか言ってやんなよ」
ゴホン。
だれかが、大きく咳きこんだ。
厨房のコンロ場の前に置かれた、縁がへこむカゴメケチャップの業務用の空き缶に、蛇口から水が流れる。タツは、窓の外をながめ、缶に溜まる水をオタマで一杯、北京鍋にそそぎ入れる。
「雲行きが怪しくなってきたぜ、雨でもふるのかなァ。なんだかジメジメとすんなァ」
竹のささらを使って素早くオタマを洗う。鍋は強火で熱されたままだ。タツは洗ったオタマで缶から水を入れ、こんどは鍋をまわし洗う。鍋にまわる汚れた水を、奥の受けにまけた。
男は窓の外を見た。雲ひとつない快晴だった。
タツは、鍋を布巾でまわしふいた。
オクサンはそわそわと落ち着かないようすだった。のれんをあげて店の外に出ていった。
ヤマさんが和からしを練るカウンターの、隅に置かれたコードレス電話が鳴った。リョーマが駆けてきて、もちあげた。
「はい、よしちゃん飯店です」
リョーマはレジ横にあるペン立てからシルバーの重厚そうなボールペンを一本ぬいた。ディシャップに伏せてならぶ伝票を一枚、ひっくりかえす。
「はい、どうぞ」
リョーマはにぎったボールペンを、なか指の腹で弾いておや指の根を軸に、くるりとまわした。男はそれを、予備校時代に覚えてよくやった。いまそれをやったらできるだろうか。男は思ってポケットからボールペンをだした。
「エビチャーハンをよっつと五目そばをよっつ、以上で」
リョーマはまたくるりとボールペンをまわす。
「はーい、じゃあ、お名前をよろしいですか? …わかっていますよー。いちおうカクニンね。ほら、オトクイサキのお名前の書き忘れはさすがに失礼だからさー。ホソノさんね。おれさホソノさんのなまえさ、頭でおぼえたのはYMOの細野晴臣で入ったんだよ。そうやって覚えてからは忘れないよ。YMOテクノミュージックで牛を育てる細野牧場って。はっはっは。おれ? なにYHJって? なんだそりゃ。おいおい細野さんひでーなァ、ヨシちゃん飯店ジュニアかよ。はっはっは。それと、いつものリョーシュウショね」
そのあいだリョーマは、ボールペンをなん度もくるりとまわした。最後に反対まわりにまわした。男はひさしぶりにやってみる。ボールペンは存外にかるくするりと床に落とした。
「はい… くりかえしますよ… ではお時間までに。お待ちしておりますねー」
リョーマは受話器を置いて、書いた伝票を剥いだ。カーボンコピーされた青字の写しがのこった。
「予約だ。伝票の書きかたはあとな。ゆっくり後で教えるよ」
ペンを拾う男の尻をリョーマはたたいた。
「出だしから、幸先は良いよ」
男は立ち上がってレジに最初に置かれた伝票を見る。
「どうした? 今日は無理にオーダー取らなくていいよ」
リョーマは男に言った。
「伝票はどうやってならぶんですか? 」
「手前のレジから、順番に奥に」
■十一時三十分。細野YMOテクノボクジョウ。エビチャーハン四。ゴモクそば四。計八。領収書。◉伝票はレジから奥にならぶ。と男はメモ帳の裏表紙に記した。
「十一時半にチャーハン八つ。ホソノ牧場さんから注文いただきましたァ」
リョーマは伝票をレジ横に置いて厨房にむけて言った。
「ありがとうございます! 」
厨房から活気のある声が上がった。
「外でお客さんまってるからさ、早めに入れちゃうよ」
店に入ってきてオクサンは顔をだした
■十一時より前。営業開始。男はメモ帳に記した。
鍋にオタマがカチャカチャとぶつかるおと、中華料理の油のにおい、スタッフのあしおと、玄関の水槽で紫色に赤色に青色にきらめくグッピーたち、奥のトイレにむかう北側の座敷席に入る通路に置かれたひときわおおきくて長い水槽のなかでシルバーアロワナはゆっくりとたゆたう。銀色の淡水魚は春の昼の陽射しに当たってきらきらとひかる。
そんななかこつぜんと、男の眼前に、店の活気は現れた。
お客はのれんをあげてゾロゾロと入ってきた。
厨房はエビを揚げて仕込みを終えたようだった。
「今日は、Cセットが酸辣湯麺(すーらーたんめん)になりますすねー」
リョーマは入ってきた客に日替わりランチを推す。
「カウンター五番、六番さんです」
オクサンは二人連れの客を、カウンターの端から案内した。
「それからあ」
と、店内をふりむいた。
座敷席のいちばん奥にある窓ぎわを指さした。
「ヤマさん、五名さま。八番卓にご案内して」
「はーい」
祖父母と両親。それと小さい子どもの家族連れで五人だった。
「こちらになりますね」
ヤマさんは座敷の奥に五名を案内した。
■開店時(あるいは常時)、お客は奥から案内するべきか? 男はメモ帳に記した。
もういちど男は、南の窓辺に案内された五人の家族を観察する。子どもが紙の箸いれから割り箸をだして遊びはじめた。母はお腹が大きい。状況をみるかぎり通路側のほうがトイレは近い。◉妊婦や小さい子がいる場合でも窓際から案内するのか? 老人は? 中央通路側優先の客はあるのか? と、男はメモ帳に書き足した。背中に、視線をかんじた。
「やだよ。あの子」
オクサンの声が聞こえた。男はメモ帳をポケットに仕舞った。
それから男は、過度の緊張で、また記憶はない。店内には厨房からホールからさまざまな角度から、声はとびかった。
「はい、レバニラ、五目チャーハンおねがいします」
「はい、カウンターさん、三名、エビチャーハン、ミニラーメン、ギョウザです」
「オクサン、それテイクアウト二個は六卓で」
「はい、じゃあこれミホさんおねがい」
「ヤマさん、半ライス装ってもらっていいスカ」
「はーい」
「ギョウザ、ふた皿でるよ」
「うま煮そばもね」
「はーい」
「ミツル、こっちヘルプたのむわ」
「オッケーっす」
「六番さん、お帰りでーす」
「ありがとうございまーす。またねー」
「えっ。もしかしてマオチャン? 」
「いやあ大きくなったねえ! いくちゅでちゅか? 」
「もうホイクエンかあ」
「え、そこのシモカワブチホイクエンに? 」
「お母さんにそっくりでべっぴんじゃないの」
「デラベッピンだなァ」
「タツ! おま」
「いやいや、こっちの話」
「ふつうにほめただけっす。某セクシー雑誌のタイトルじゃないです」
「三千と九百三十八円ですね。細かいほう大丈夫ですか? 一万円でよろしいですか? はい。ありがとうございます」
「ミホさんどいて、あたしがレジやるよ」
「はーい」
「千と四十五円。一万円札は、ちょっと遠慮してもらって。できれば」
時間がすこし経った。男は冷静になった。柱時計を見た。
十一時半だった。営業開始から三十分が経っていた。ん? 男はなにかを思い出そうとした。が、なにも思いだすことはできない。
厨房はオープンキッチンだ。マスターはキッチンの中央に立って黙々と鍋をふる。その脇にリョーマは、のれんをあげる客、座敷に靴を脱いで上がる客、レジで財布から小銭を出す客、それらが見える位置に立って、カウンター客に笑顔で話しかける。リョーマが立つ位置からは店内は一望できる。マスターは厨房の要でリョーマは店の司令塔だ。そのように男は見えた。
「シゲちゃん、これもてるかい? 」
オクサンはシゲをよぶ。シゲは座敷席でお客にインタビューをしている。
「はい」
シゲはディシャップに現れる。
「ミツルくん、こっちきてコップ洗って」
「はい」
「ミホさんこれ、エビチャーハン大盛り、十番におねがいできますか? 」
「はい」
「これ、エビチャーハンとカニチャーハン。両方とも座敷の三番ですね」
「オッケー」
スタッフの流れは滑らかだ。そんななかの一瞬だった。
「ここ、カメラ。あぶねええな」
手をぶつけたマスターは、小声で言ってカメラをにらんだ。
一瞬、現場は静まった。なぜカメラはその場所に置かれているのか? 男はわからなかったがマスターが指摘して初めて、カメラは作業の邪魔だとかんじた。マスターは黙って仕事にもどった。
「このカメラ。ぶっこわすかも知んねえよ。でもま、いっか」
リョーマは笑った。
「まぁいいよな。ぶっ壊れたらぶっ壊れたでな。再生数を稼いでもっと良いのを買いなおせば、な」
タツはカメラをシゲにむけて、「ほら伝票を、シゲさんがよみあげてみなよ」と言った。
「えびそば一、ギョウザ二、レバニラ入りまーす」
シゲは自分に向けられたカメラに向かって伝票をよみあげる。
「伝票はどのように置けばいいですか? 」
男はディシャップに割った。
「あ、すみません。撮影中でしたか」
タツは男を一瞥して舌打ちをする。おい、ちったァ空気を読めよ。とつぶやく。
「じゃあこれはあたしがもってくよ」
オクサンはディシャップに置かれたカツ丼と味噌ラーメンをもって消えた。
「伝票はここ。レジの横。おねがいします。っておけばいいよ」
タツはカメラに向いて笑って言った。
「はい」
男はまたタツにたずねる。
「これと、一緒におけば良いんですか? 」
男はカーボン紙が重なった用紙を一枚めくって見せた。
タツは北京鍋にチンゲンサイとハクサイを入れながら、
「上の一枚、剥いで、」
「はい」
「でその台は、厨房手前から古い順なんで、レジのほうに」
「はい」
「そうおねがいしますよ。置いた? 」
「はい」
男は頭を下げる。
シゲはカメラをもち、機嫌を損ねたように顔にシワをよせるタツにレンズを向ける。
「喜ちゃん飯店は、なんでこんな明るいお店なんですか? 」
タツはそれまでの顔をパッと破顔させて、カメラにむかって目をぱちくりさせる。
「そりゃあ、やっぱりもう、マスターとオクサンも。おれが入ったときから明るいから。やっぱり一緒に仕事していると自然と自分もそうなるんすよ。お客さんもやっぱ、明るい人ばっかなんで、」
オタマで餡をかた焼きそばにのせる。
「そんななかで、黙りこくって、仕事してたらさあ、やっぱつまんないじゃないですか」
タツはカメラの奥に立つ男を一瞥した。
「タツさんは何年くらいになるんですか? 」
シゲは訊ねた。
「二十三年になりますね」
「では長年ここではたらいていて、タツさんがいちばん記憶に残っていることは…」
シゲはインタビューをつづける。
リョーマはエビそばを両手で持って、ディシャップにきた。
「じゃあ、これ。もてる? 」
リョーマは大皿と、テイクアウトが入った白いビニール袋を男にもたせた。
「このふたつだけもっていけば良いですね」
男はリョーマの目を見て、念を押した。
「うん。だいじょうぶだ」
リョーマは男にうなずき、軽く目をまたたかせる。
「大盛りソース焼きそばとおみやげで、それとテラスに餃子をひと皿ね」
厨房からマスターとトモキが男を見ていた。
「ギョウザ一枚、ハルマキ四本、大盛りチャーハン、タンタン麺、チャーシューメン、チャンポン、ネギそばでーす」
オーダーを取ったミホがやってきて厨房に言った。
「はーい」
厨房から元気な声がかえってきた。
厨房のうごきは流れるようだ。トモキが餃子の鉄板に水をかける。蒸気は上がる。柱時計を見て、壁に沿った冷蔵庫横のスペースにドンブリをよっつならべる。寸胴から麺をあげて湯を切る。ドンブリに落とした麺に、手首でスナップを効かせて胡椒をふる。マスターの脇にある、卵や長ネギやチャーシューの塊がうかぶ白くにごった寸胴からスープをドンブリにそそぐ。小皿で味を見てうなずく。するとマスターの背後をぬうようにタツは現れる。まるでバレエダンサーか忍者のように。タツはオタマで五目そばの餡をドンブリにとろりとのせる。最後にリョーマが、エビをのせて整えて、出来上がりだ。チームワークは抜群だった。
「これからエビチャーハンと五目そばも一気に出るよ。ホソノさんのテイクアウトのやつも一緒にね」
「え、ホソノさん? ちょテイクアウト四つ? 」
オクサンの顔はみるみる青ざめた。
男は思いだした。ポケットからだしてメモ帳をひらく。
■十一時三十分。細野YMOテクノボクジョウ。エビチャーハン四。ゴモクそば四。計八。領収書。と書いてある。
オクサンは目を見開かせたまま、男がひらくメモ帳をのぞきこんだ。それからまたゆっくりと、男の顔を見あげた。
八角形の皿に半球体の黄金色のチャーハンが盛られ、上部は油で揚げた大ぶりのエビがいく匹ものる。
「はい、こっちはエビチャーハン、あがり。カウンター三番四番さんと、テラスの二番卓ね」
オクサンは棒読みで言った。横に立つミホは仕上がったエビチャーハンを右手にもって、左手でレジ横にならぶ伝票に赤えんぴつで横線を入れて運んでいく。
「ここ、書いてあんじゃん。テイクアウト。予約。十一時半」
リョーマは一番左にならぶ伝票に、指の腹を押しあてる。カーボン紙に八宝菜の餡と油がにじんだ。
「やだね、あたし。またやっちゃったかね」
「ヒトにメモ取るな、とか言えた立場かよ」
リョーマはだれにともなくつぶやく。
「はい、ありがとうございましたー。合計で二千八百七十円ですね」
もどってきたミホはレジを打つ。
「ヤマさんこれタンタン麺とハルマキね。近い卓のほうでいいよ。ハルマキふた皿はカウンター六番ね」
「どこあんだよ。テイクアウトのエビチャーハンよ」
リョーマは低い小さい声で言った。
トモキが立つテラス側の勝手口がひらいて作業服を着た男が顔をだした。
リョーマは笑顔であいさつをする。男の作業服の胸に細野牧場と刺繍されたロゴが見える。
「テラスの四番さんもさっきテイクアウトのエビチャーハンだったんだよ」
オクサンは小声で言った。
「んなこたあどうでもいい」
オクサンは小さい咳をした。
「出したんか」
リョーマは言う。オクサンはうなずく。リョーマは厨房に、作り直しだ。と言ってもどった。
「はい、これ、五目あんかけ、ね」
タツはディシャップにドンブリを置く。
オクサンの肩越しに男はのぞきこむ。
「なんだい! 」
オクサンはふりむいて男をにらむ。
「それは五目あんかけですね。商品名の確認です。ぼくが運んでもいいですか? 」
「あんた、そんなところにつったっちゃあジャマだよ! 」
男は一歩引いた。ミホとぶつかった。
「すみません」
男はミホに頭を下げた。
「ミホさん、この二つ、五目あんかけ、座敷の二番ね」
「はーい」
「やだあんた。なんだいそのワキは! 真っ黒じゃないか、そんなところに水でもこぼしたんかい! 」
男が着た黒いTシャツの腋の部分は、ぐっしょりと濡れていた。扇状にクラデーションになっていた。
「多汗症です。緊張すると腋汗が吹きでるんです」
「今日は良い天気なのに、妙に店内がジメジメすると思ったんは、これだったか。ぷんっ、て臭わなきゃあいいけどな」
タツは笑った。
「すみません」
男は頭を下げた。
「アキちゃん。今日は席番をおぼえようか。ミホについて行ってくれ」
リョーマは男に言った。
「アキちゃん、ひとつもてる? 両手でいいわよ」
男は両手でドンブリに触れた。
「熱っ」
どっと笑いが起きる。
「落とさないでおくれよ! また厨房さんに作ってもらわなきゃいけないんだから! いいよもうっ! それあたしがもってくよ。ミホさんとテラスをさげてきておくれよ! 」
ミホは、すみません。おねがいします。と言ってドンブリをディシャップに置いた。
「いいよ。それな、そういうとこよ。もっとイジられたらなあ」
リョーマは笑った。
「アキちゃん、テラスにいこう。私についてきて」
ふたりは 勝手口にでた。
「テラスへは裏をとおるの」
「わかりました」
裏の通路では一升炊きの炊飯器が湯気をしている。
「アキちゃん。ワキガ? 」
「え? 」
男は一瞬、からだを止めた。
「いや、四十六年、生きてきて、まわりからワキガと指摘されたことは一度もないです。で、病院でも調べたことはないです」
「でも、奥さんいたんでしょ」
「前妻は韓国人です。履歴書に書いてあるとおりで、前妻とは二○○四年に中国の北京に留学したときに知りあって翌年に結婚して、翌二○○六年にソウルで娘が生まれました」
「へえ」
ミホは上をむいた。
「じゃあ娘さんもう十七か」
「韓国はかぞえなので、五月十七で十八になります。いまはソウルにいると思います」
「いると思いますって、」
男は黙った。
それから急に、男の顔のひたいの中央にシワが寄った。
「娘が一歳のときに、喜ちゃん飯店に家族で食事にきました。当時、生きていた祖父母も両親も一緒だった」
男は言って男は黙りこんだ。
「ってことは十六年前か」
ミホは言った。男はうつむいたままだ。
「どうしたの? 」
ミホは小さい声で男の顔をのぞきこむ。
「おもいかえせばオザワ一家の最初で最後の外食は喜ちゃん飯店だ。ぼくの記憶にあるかぎり祖母は外食をしない、家から出ないひとでした。祖母の人生の最後の外食は喜ちゃん飯店だ」
男はそう言ってうつむいた。
「その思いでがあって、喜ちゃん飯店にアルバイトを申しこんでくれたのかしら? 」
「いや、じつは黄ニラ農家がダメになって」
「キニラノウカ? え? なんのこと? ニラ農家? をやってたの? 」
「実家は曽祖父から農家の分家になります。父は高崎からの婿養子で元警察官です。黄ニラ農家のことは忘れてください」
男はまたなにかを言いかけて、また黙った。
まわりに一種みょうな質量の空気がただよった。
「でも、バツイチで奥さんがいたことがあってワキガを指摘されなかったんだから、ワキガじゃないわよ」
ミホは顔を、男の濡れた腋に近づける。
男はわっと一歩、退いた。
「私も臭わないもの」
ミホは単刀直入にモノをいう女だ。男は思った。男は、ミホの明るく実直な性格に共感をもった。
「ありがとうございます」
「えー! ここでありがとうって」
ミホは笑った。
「ここ、段あるから気をつけてね」
「はい。了解です」
裏手のテラス席にでた。店がテラスと呼ぶ場所は、八畳ほどの屋内ウッドデッキだった。屋根はキャビンのようだ。角柱の隙間にはバッテンで筋交が入っている。床は人工芝のシートが貼られている。ミホと男が入ってきた裏の通路からの出入口に、腰の高さの小台におしぼり入れがある。店側に背のたかい業務用の冷蔵庫があってコップや酢や醤油などが冷えている。
「せっかくきたんだから、下げちゃおう」
ミホは言った。男はうなずいた。
「どんぶりに汁が残っているから。アキちゃんはどんぶりだけもって戻ってくれていいわ。あとは私がもってく。ちなみにお盆はね、あのおしぼりの台に一個はあるはずだから。無ければ。ま、そんときね」
ミホは笑った。
男はメモ帳を取りだそうをする。それをミホは手で制した。
「なんなら、写メを撮っちゃえば。時間の節約だし。書くのはゆっくり家に帰ってやれば良いじゃないの」
「あ、なるほど。ですね」
と言って男はポケットをまさぐった。
「ケータイはロッカーでした」
「持ってきちゃえばいいよ。だれも見てないし」
男はロッカーに戻ってケータイをもってきた。写メをパシャリ。撮った。
「もどるときに、どんぶりはもっていく。二度手間、無駄なうごきはしない」
ミホは笑った。
「あっ! 」
男はちいさくさけんだ。
「アキちゃん、マヌケね。そこかわいいけど。慣れだからどこもおなじよ。私が入った時はもうすごかったんだから。『言われてから動いたらおしまいだよ! 』ってよく叱られたー」
ミホは笑う。
通路でだれかが咳をするのが聞こえる。
「じゃあ、これをもって下がります。それと」
「なに? 」
「ミホさんはいま、なんで私服のままなんですか? 今日は休日で急きょのヘルプですか? 」
ミホは緑色のトックリのセーターにブルージーンズ姿だった。
「今回の、シゲさんのユーチューブの取材のモチーフは『看板娘』なんですって。それでおやすみは返上。本当はソウジと遊ぶ予定だったー」
ミホは苦笑いをする。
「なるほど、です」
男は、先ほどしゃがんで手をのせたソウジの頭の感触と彼の顔を思いだした。それからお盆を持ってデッキをおりる。店の裏から見える邸宅の垣根に人影が咳きこんでいるのが見えた。
十二時をまわる頃になると店内は燃えるような活気だった。
男はメモ帳を見るたびに、オクサンになん度も叱られた。
男はシゲを見ると彼は上手に配りをやっている。カメラをまわし、お客に喜ばれている。羨ましかった。
「アンタ、どこにつったってんだよ。ジャマなんだよ。そこにつったってんだったらアンタは洗い場にいきなよ。洗い場のプロなんだろ。高崎のボーニッシモで洗い場をひとりで任されたんだろ! 」
カウンター客の麺をすする音が止まった。
男は黙って洗い場に入った。シンクと洗浄機を前にして男は息を整える。
洗浄機はどの店もおなじ規格だ。プラスティックの剣山のような突起が下からでた四角のパレットに効率よく皿を立てて、目一杯につめこむ。最後にスプーンやレンゲを入れたザルをのせて扉を閉める。音を立ててまわりだす。
男の頭のたかさに皿を置く棚があった。恐れていたほど置き場のスペースはなかった。洗浄機をとめずに効率よくまわせば、皿がなくなるなんてことはない。男はふんだ。
「あれ、五番が一枚しかないけど」
リョーマがレジにとんできた。腰に両手をあて伝票を見つめる。
「あたしが見落としたかもしれない。ごめん」
「オクサン、ぼくがいますぐ作ります! 」
奥で、トモキは声を張った。
「ともちゃんありがとう。五番なんだけど」
リョーマは厨房にもどった。舌打ちをする。
「順番がくるうんだよ」
「ミホさん、これ。先にごめんなさいって、一枚だけもってってくんない」
「わかりました」
「自分でいけよ。ミホに行かせんなよ。ながれが悪くなるんだよ」
リョーマはこぼした。
厨房の空気は豹変した。男はそれに気づかない。
「オクサン、ちょっと聞いて良いですか」
「はい。なんでも聞いて」
「手のことなんですけど」
「ナニ手って」
「手が荒れるんです」
「アンタ、いったいナニいってるの? 」
「この洗浄機ではカンソーザイってつかっていますか? 」
「カンソウーザイ? 」
「乾燥剤です。洗い終えた濡れたお皿の乾きをはやくさせるために、洗浄機に入れる液剤のことです」
「そんなのがこの世にあんのかい? 」
オクサンは言うとタツは笑った。
「ボーニッシモ本店では乾燥剤を原液でつかっていて、知らぬうちに手のひらの皮膚が指紋にそって割けたことがあるんです」
ぱっくりと割けてびらびらになった指紋の隙間から真っ赤な筋肉がみえた。その溝にソースや食べのこしが染みこむと、塩を塗りこめたごとく傷口がいたんだ。男は思いだした。
「アンタ、そんなこと気にするの? 洗い場で? 」
「いや、その」
「みんな多少の手荒れはするもんだよ」
「すみません。手袋をつけます」
「素手でできないのかい? 」
「え、」
男は一歩あとじさった。
「素手ですか」
「手袋じゃあ、すべってしかたがないやね! 」
「すみません」
男は頭を下げた。手袋をするのは諦めた。
「ウチは乾燥剤は入れてないよ。洗剤だけだ。それでも手荒れするんだったら、いいよ。普通に手袋して。ひとそれぞれやりかたは違うんだ。みんなべつべつのこと言うのは、アキちゃんも他の店でやってて知ってるだろ」
「わかります」
「そ、自分がいちばん良いと思うのを取り入れていけばいいよ」
「そう言っていただくと。助かります」
男はリョーマに頭を下げた。
洗う皿の数をひとつこなすたびに、ボーニッシモ本店の従業員だった現場のカンがよみがえる。自然と男の皿洗いのテンポはあがる。
「お、いいね、その調子だ。ほんと助かるよ。まあ詰めりゃあまだまだ入るけどな」
タツは男の脇からのぞきこみ、また洗い場を背にして鍋をふるう。
「ありがとうございます」
男もふりむかずに答えた。男はうれしかった。
「アトで手が空いたらよ。おれの入れかたおしえるよ。まずは見て覚えろや」
「見て習う。見習いですね」
「わかってんじゃーん! その調子よ」
「アトでタツさんの入れかた。おねがいします」
「おい、聞こえてんのかい! そこのアンタだよ! 」
男はディシャップにふりむいた。
「アンタ耳をどっかに落っことしちまったんかい! 」
男は固まった。
「洗いものないんだったらホールにもどりなよ! 」
男は洗い場からホールにでた。
ホールにもどって男はカウンターのさげに行って、プラスチックの衝立を倒しそうになった。
「あっ、申し訳ありません」
男はとなりでラーメンをすする客に頭を下げる。
「ほら、洗い場また溜まったよ。言われる前に動いてくれなきゃこまるよ」
男は洗い場にもどった。
「シゲちゃん来て。あそこさ、オーダー取ってこられるかい」
オクサンはシゲを手まねきする。
「はい、行ってきます」
シゲはディシャップにカメラを立ててオーダーを取りに行った。
タツはシゲの持つカメラを手にとってふる鍋を撮影する。できあがったエビそばをディシャップにのせる。
「こっちからだとあんまり映りが良くねえな。逆光で」
もどってきたシゲは伝票をディシャップに置く。タツはカメラをシゲに返した。
「じゃあ、シゲちゃん。こんどはこの半ライス味噌ラーメン。カウンター二番ね。落とすんじゃないよ」
「はーい」
シゲが配膳にでると、タツはシゲが書いた伝票を見てニヤニヤと笑った。太陽のある南窓にむけて紙を透かして見ている。
「リョーマさんトモキ。見てみろよこれ」
厨房の伝票置き場にタツは伝票を置いた。
アロワナが泳ぐ水槽の前で立っていた男は近づいてきて伝票をのぞいた。
おまんこ、ば×2
と男には読めた。
男は首をかしげた。
「うまにそば。って書いたつもりじゃねえか」
タツは笑ってリョーマに手招きする。
「おがうで、んがにで、こ、がそ、ってことか」
リョーマは顔をのぞかせる。
女性陣がディシャップから離れたすきに、タツはシゲに手まねきをする。
「どっからどうよんでも、うまにそばですね。男性はみんなうまにそば好きでしょう」
奥から現れたトモキは笑って盛りつけ台にドンブリを置いた。そのうえにタツは餡をのせる。リョーマはエビをのせる。
「これはなんですか? 」
男はタツに訊ねる
「エビそば」
タツは答える。
「これはなんですか? 」
「これもエビそば」
「これはエビそばですね」
「そうだよ」
「八宝菜の餡がのるとエビそばになりますすね」
「そうだよ」
「エビそばにエビがのらないのはうまにそばでいいんですね」
「そうだよ」
タツは男をにらんだ。
「そんなもん、やってりゃ勝手に慣れるだろうが。頭で覚えようとすっから、ぎゃくに頭にへえらねえんだよ。そのめえによ。おめえさ、空気を壊すなよ。こっちはチームプレーでやってんだからよお」
タツは舌打ちをした。
「アキちゃん。いいよ。次はおれに聞いて。なんどでも、どんどんおれに聞いてくれよ。おれも、あったま悪りぃからさあ」
リョーマは笑って頭を掻いた。男はリョーマにふかく頭を下げた。
「あきれちゃうよ、この子は。ブツブツと呪文みたいにおんなじことばかり聞いてさ」
男は黙った。
「リョーマ。もうさ、オザワさんにさ、洗い場に入ってもらってよ、いろいろと慣れるまで」
「はいよ」
「アンタも、言われる前にパッてみて。洗い場入ってよ。ほかの他人の仕事ばっかりのぞいて見てないでさ」
「はい」
男は洗い場にもどった。
そこから男はまた記憶がなくなっている。だれかにいろいろとなにかを言われた気はするが、この時間帯の記憶はどこかにとんで、脳の記憶域からすっぽりと欠落していた。
「ウチは覚えるところじゃないんだなよ」
「これは教えたよね」
「これもう覚えてるよね」
「これ教えたはずだよね」
「こんなんも、できないんかい! 」
「本当にケイオーかい」
「使えない、大学出だねえ」
「こんなんじゃ、ウチじゃなくどこ行ってもつかえないよ。洗い場にもどって皿でも洗ってくれないかね」
「お父さん、お客さんがね、ニラがすこし強(こわ)いって。ニラってもう時期じゃないんだよね」
オクサンはマスターに言った。
「そうだいなあ、そろそろ終わりじゃねえかな、わかんねえけど」
マスターは首をかしげた。
「韮の時期はもう終わります」
男はいった。韮の時期。そこで男は、この店のアルバイトに来た経緯を思いだした。
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