冒頭で出会うVol.8_分娩室
ぽた、ぽた、と陣痛促進剤が点滴筒のなかに垂れる。速度を変えると陣痛を捉える機械が大きく波をうつ。
「痛い! ちょっと、点滴で遊ばないで! 」
顔を痛みに歪ませ、佳世がいった。起きてたのか。いうように理は佳世を冷たくみる。佳世は青色の、シルクのようにうすい出産着をまとってベッドに横たわっている。頭を擡げ、この私が産むのよ!と佳世は睨む。理は窓に寄りかかる。外は梅雨前の糠雨で白い。内庭に咲く紫陽花のような青い花の葉のうえに大きな雨粒が膨らんでいた。
六畳の分娩室にはエリック・クラプトンのライヴアルバムの「アンプラグド」が8時間かかりつづけている。娘の出産の瞬間には「ティアーズ・イン・ヘブン」しかない。理はそう決めこんでいたのだが、62分のCDはもう8周回もまわっていた。窓際にあるカウチのような付添人専用ソファーには読み終わった文庫本が三冊積まれてある。アコースティックギターを抱えたクラプトンが、9回目のティアーズ・イン・ヘブンを歌い始めたそのときだった。
「押して!」と佳世さけんだ。え、なにを。理が聞き返す。「ナースコールに決まってるでしょ!」理は押した。それからは呆気なかった。
9時間の沈黙を守っていた分娩室に、黒縁メガネをかけた老医師がひとり、ガラガラガラと器具を引き連れた看護師が三人はいってきた。
佳世の股は手際よく開かれる。理は座ることができず、その場に立ち尽くす。
佳世は顔をひどく歪ませる。
「やだ! もう無理、できない! 」
顔を真っ赤にさせ、シーツを握って身をよじる。
「頭が出てきたらまた呼んでくれ」医師はベテラン看護師につたえて分娩室をでていった。理はポカンと口を開けて医師の後ろ姿をみていた。
「なにやってるの! ほら手を握ってあげなさい! 夫の役目でしょう!」
ベテラン看護師は理にどなる。佳世の額からは玉のような脂汗が噴きでている。
「ほら、旦那さんと一緒に呼吸法やったでしょ! 思い出してやるのよ。ヒッヒッ、フー、ヒッヒッ、フー、もう一度、鼻から息を吸ってヒッヒッ、フー、ヒッヒッ、フー」看護師は佳世に大きな声で話しかける。
佳世は目を飛びださせ、理の手をにぎる。看護師は理を睨む。理は佳世の手を強くにぎりかえし一緒に、先日まで毎晩ふたりで寝る前にやっていた呼吸法をやる。
M字にひらく佳世の股の向こうに、ソフトボール大の、血でびしょびしょに濡れた頭が見える。髪を汗でずぶ濡れにした佳世は、つかんでいた理の手を振り払って見たこともない優しい眼差しを自分の股に投げかけ、その手を伸ばした。
老医師に強く肩を叩かれた。体を強ばらせる理を無視し老医師は、理の右手に銀色に光る鋏をにぎらせた。
理の目の前に、真っしろな、バイエルンソーセージのようなものがぶらさがっていた。へその緒だった。娘と母親は、まだ繋がっていた。
「ジョギ。」
医師は強引に手を添えられた理はへその緒を切断した。
看護師が抱き抱える生まれたばかりの娘は老いた紫色の猿にしか見えなかった。
理の右手にはまだ、バイエルソーセージを切断した「ジョギ。」の感触が残っていた。
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書いて感じたこと、
⑴娘との出会いは長いね。笑(時間で切ったので、ここまで)。
⑵ちょっとした掌編になっちゃってる(綺麗にまとめようとする無意識が働くようだ)。☜コレ、じつはとんでもなく厄介な問題かもしれない…。
⑶実際は、場所は韓国のソウルで、韓国の習慣(夫がへその緒を切る)なんだけど、日本には多分、この習慣はないと思う。かといって、下記の⑷は無理だと思い。設定を日本に、夫婦も日本人にした。
⑷事実は入り組んでいる。「ぼく」は日本人。「前妻」は韓国人。共通語は北京語。ソウル市内の産婦人科で、日本人はぼくだけ。他の医師やスタッフ、前妻や家族はみな韓国人。この特殊な状況説明は、冒頭では、いまのぼくの技倆では全部の描写は無理。だからシーンの「どこが削れるか」、状況の「どこを描けばいいのか」をもっと明確に(できれば時間内に)サクサク削っていければよかった。
⑸鋏で切る「ジョギ。」を冒頭に持っていって、スッと状況だけを描いて終わり。でもよかったかも。
★文章をきれいにまとめようとする無意識★
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物語作家の内在律
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物語を文脈を補完しようとする無意識(内在律) ☞ 自分の描写の新たな地平を切り拓く阻害物になるのでは?