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なんちゃって柔道部員だったころの話

豪快でキレが良く美しい背負い投げの達人だった金メダリストの古賀稔彦さんが53歳の若さで亡くなった。オリンピックや世界選手権での大活躍、試合直前の靭帯損傷を跳ね返してのメダル獲得、軽量級なのに無差別級に出て大男を次々と投げ飛ばしての準優勝など、まさに「柔よく剛を制す」を体現され、記録にも記憶にも残る方だった。指導者としても暴力とは無縁の優しく懇切丁寧な教え方で選手の個性を生かしてヤル気を上手く引き出して谷本さんや素根さんを育てた方だ。

かたや、自分は高校の3年間は柔道部に所属していたが、170センチ60キロの体格では団体戦に選抜されず、体重別の個人戦でも軽量級の試合に出場できず、たまたま枠が空いてた無差別級に出ろと言われて出たはいいが試合開始3秒後に宙を舞った男。あんまりキレイに投げられたから逆に気持ち良かったのを覚えてる。

自分たちの高校の頃(45年前)、ウチの高校では、体育の先生だけはなぜか職員室ではなく、体育館の2階にある「体育教官室」という部屋が与えられていた。ウチの柔道部は重量級や中量級は割と強い選手が揃ってたので、市内の大会の団体戦では殆ど負けなしで、個人戦も国体に選抜された選手もいたりして、市内では上位を独占してた。監督は普段は体育教師で、大会直前だけは本気で指導するけど、何もない時には練習に顔を出さなかったり、赤ら顔で出てきたりしていた。授業が終わって部活が始まるまでの間に教官室で一杯引っ掛けても他の教科の先生の目も届かない無法地帯だったのだ。今じゃ全く考えられないとんでもない話だけどそういう時代だった。監督がそんなだから?というのは言い訳だけど、僕たちもたまに武道場の真ん中に帯を垂らして隣の剣道部とバレーボールやったりしてたので、なんちゃって柔道部と言われたこともある。

チームが県大会に出場する時、自分も応援で同行した。ちょっと遠くの会場だったので前泊したんだけど、信じられないことに酒盛りが始まって監督が一升瓶を持って来て飲め飲めとコップに注いでくれた。自分は家で親父の晩酌に付き合ってビールを一杯飲む程度だったので、すぐに酔い潰れて寝てしまったけど、酒豪揃いの先輩たちはケロリとして翌日の試合に出ていた。彼らは柔道部なのに当時流行りの肩までの長髪で、揃ってイケメンで勉強もスポーツもオールマイティで、なんか違う世界を生きてる人たちだなと感心したものだ。

当時、女子柔道界に山口香さん(現在JOCで唯一マトモな思考回路を持たれている理事)というスーパースターが登場し、中学生ながら全日本で連覇(後に10連覇、世界選手権や五輪でもメダリスト)され女子柔道に世間の注目が一気に集まった時、ウチの監督が「よし、これからは女子柔道の時代だな。お前ら部員にならんか?」と当時の女子マネージャー2人に声を掛けたら2人とも興味シンシンで二つ返事でOKし、監督は僕らのことはほったらかしで彼女たちを一生懸命指導し始めた。

とは言え、女子部員はその後1人増えただけで3人だけで十分な練習ができるはずもなく、男女一緒に乱取りなども行うことになった。彼女たちはみんな小柄だったので、男子との体格差、体力差があり、僕たちは遠慮半分、手加減半分でやっていた。さすがに寝技はしなかったが乱取りでもドキドキしちゃって練習はうわの空だった。でも彼女たちの上達は早く、最初はほとんどできなかった腕立てや腹筋もしっかり回数をこなすようになるとチカラも付いてきて、身体を預ければちゃんと背負い投げができるようになってきた。ただ残念なことに県内の学校では他に女子部員のいる学校はなく試合となると部内の3人だけでやるしかなくてかわいそうだった。

僕たちが引退した3年生の冬だったかな?部員の家でパーティーをした時に彼女たちにマネージャーから部員になった本当の理由はお目当ての先輩と練習ができるからだったと教えてもらった。青春ドラマならそこから展開するところだけど「お目当ての先輩」は残念ながら僕じゃなかったです。おわり。

#部活の思い出
#女子マネから部員へ
#なんちゃって部員

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