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たまに真面目な話 フランス革命編② #世界史がすき
もう2024年も終わりですね。早い。あっという間でした。
本日も真面目な世界史のお時間です。
前回の真面目な世界史はこちら
1792年8月10日、ルイ16世が逮捕され、王権が停止されたことは、前回述べました。王様は信用ならないので、政治はもう自分たちでやりましょうよということになり、同年9月、普通選挙による国民公会が招集され、共和制の樹立が宣言されました。1804年まで続くこの共和政を、第一共和政といいます。
国民公会以前のフランス議会には、フイヤン派(右派)とジロンド派(左派)がいましたが、今回はジャコバン派という、新たな勢力が台頭してきました。
じつは、1789年に政治結社ジャコバンクラブが結成され、フイヤン派とジロンド派はジャコバンクラブから離脱したものだったのですが、一般にジャコバン派と呼ばれるのは、国民公会の主導権を握ったロベスピエールら最左派のことです。
1793年、国民公会の決議により、ルイ16世、マリーアントワネットが処刑されました。
これはヨーロッパ諸国に多大なる衝撃を与えました。一国の王たる者が、平民に処刑されるなど前代未聞のことだったからです。ヨーロッパ諸国はフランス革命を危機とみなし、イギリス首相ピットの提案で、第1回対仏大同盟を結成しました。
一方国内では、ジャコバン派は破竹の勢いで台頭。1793年にはジロンド派を追放し、1793年憲法(ジャコバン憲法)を制定したり、反革命運動を阻止する諸機関を設立したりし、一党独裁を強めていきました。
ジャコバン派は、下層市民の生活改善、脱キリスト教、フランスの近代化を目標に、様々な改革を行いました。封建的貢租の無償廃止、最高価格令による物価統制、革命暦の採用、徴兵制の導入などです。
封建的貢租とは、前回も出てきたように、荘園に縛り付けられた農奴たちが納めなければならない年貢のようなものです。それを廃止することで、自作農の創出を目指したのです。しかし、新たに自分の土地をもった自作農たちは、今度はその土地を手放したくないので保守的になり、かえってロベスピエールら改革派の思惑から外れていってしまいました。
最高価格の設定による物価統制も、庶民の生活を助けることが目的でしたが、生産者の意欲喪失につながり、経済が停滞。加えて政敵を容赦なく処刑するロベスピエールの恐怖政治に不満が高まり、ついに1794年7月(革命暦テルミドール9日)、ロベスピエールは捕らえられ、処刑されました。これをテルミドール9日のクーデタといいます。
穏健派は恐怖政治の混乱を収めようと、南ネーデルラント併合後は、殆どの国と休戦し対外関係の安定をはかり、1795年には新たに憲法を制定。国民公会は解散させ、制限選挙による二院制議会と5人の総裁からなる総裁政府をたてました。これにより穏健なブルジョア共和政を確立させようとしたのですが、総裁が5人ですよ。あつものに懲りてなますを吹くとはこのことで、極端!ローマ共和政の三頭政治すらまともにできなかったのに、5人も総裁がいて政治が安定するはずないのです。
バブーフの陰謀と呼ばれる、一種の共産革命未遂や、王党派の反乱がおこるなど、政情はきわめて不安定。国民は力強い、カリスマ的指導者の登場を夢見始めます。あー、誰かこのぐちゃぐちゃなフランスをきっぱりと導いてくれないかなー…。
そこに颯爽と現れたのがあの男。ナポレオン=ボナパルトだったのです。
フランス革命はどうやらここまでらしいです。
ナポレオンが大暴れして、没落して、王政が復活して、今度はナポレオン三世とかいうナポレオンのバッタもんが登場するところまで一気にやりたかったけど無理かもしれません。パトラッシュ、ぼくもう疲れたよ…。
もしかして思い出したようにまたやるかもしれませんけど。
そこはお楽しみということで。
Au revoir.
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