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たまに真面目な話 フランス革命編① #世界史がすき

こんばんは。世界史のお時間です。

前回の真面目な世界史はこちら

 ルイ十六世のお抱えの蔵相には、テュルゴーとネッケルの二人が居ました。テュルゴーという人は、当時フランスで流行っていた重農主義者でした。重農主義とは、国の経済の根幹を農業に置き、土地の利用や農民を重視する考え方です。ネッケルは銀行家でした。特権身分に課税しようと言い出したのは、実は彼です。

 ここからわかるように、ネッケルはだいぶ庶民寄りの人だったわけです。
 平民たちの勢いに押され、憲法制定国民議会なんか作っちゃったルイ十六世でしたが、後から恐ろしくなります。これってもしかして、ジブンの地位、危ないんと違いますか。というわけです。

 そこでルイ十六世は武力で議会を弾圧。さらには、庶民の味方のネッケルを罷免してしまいます。

 これに怒ったパリ市民たちが立ち上がりました。1789年7月14日、パリ市民は、圧政の象徴だったバスティーユ牢獄を襲撃。これによって、フランス革命が始まったのです。

 バスティーユ牢獄から武器を盗み出したパリ市民は、民兵部隊を組織。その勢いに押され、ルイ十六世は国民議会やパリ市の改革を承認し、さらには他の都市でも同様の市政改革を実施します。こうした混乱は農村部にまで波及し、農民たちが各地で蜂起するなど、あっという間にフランス中がとんでもない騒ぎになってしまいました。

 勢い、凄いですよね。フランス革命は殆ど勢いだったと言っても過言ではないと私なんかは思っています。日本ではこうはいきません。さすが血湧き肉躍るラテン民族。

 事態の鎮静化を図るべく、議会は8月4日、封建的特権の廃止宣言を出します。


 そもそも、封建制度とは何かというところからお話ししましょう。その起源はなんと紀元四世紀後半にまで遡ります。

 四世紀に入るまでは、ヨーロッパはローマ帝国が治めていました。次第に衰退し東西に分かれたローマ帝国でしたが、東ローマはのちにビザンツ帝国として、ギリシアやトルコあたりに栄え、西ローマは、四世紀後半、突如雪崩を打って押し寄せた移民によって押しつぶされてしまいます。

 そう、四世紀後半に起こったこの出来事こそ、ゲルマン大移動。かつては東ヨーロッパに住んでいたゲルマン人たちが、さらに東から突如現れた謎の民族、フン人によって押し出される格好で、イタリア半島や現ドイツ、さらにはグレートブリテン島にまで移動して国家を築いた、という出来事です。

 ゲルマン人たちは、自身のもつ戦士間での主従制度と、移住した土地に根付く、ローマ帝国時代の農業制度とを結びつけて、新たな主従制度をつくりました。これが、封建制です。

 封建制下のヨーロッパでは、国王、聖俗諸侯、騎士など大小の有力者が、土地を媒介とする主従関係を結びました。君主が封土を与え、臣下を保護下に置くかわりに、臣下は君主に対し軍事的奉仕の義務を負うという契約です。

 武人に封建とすると、農民を支配する制度はどうだったのでしょう。荘園制です。国王、聖俗諸侯、騎士、教会、修道院に至るまで、あらゆる有力者は、富を生み出す最重要財産である土地を、そこで働く農民とセットで、荘園として経営していました。荘園内の農民たちには、領主の所有物として働く農奴と、比較的独立した自由農民とがおり、いずれの農民にも、教会に収穫高の十分の一を税として納める義務がありました。また、荘園内の事件は領主が裁くという領主裁判権があり、農奴にはさらに、賦役・貢納の義務がありました。

 封建制、荘園制で成り立つ社会を、封建社会と言います。


 1789年8月4日に廃止宣言が出されたのは、農奴制、十分の一税、領主裁判権などで、さらには公職が身分問わず開放されることが決められました。

 ついで議会は、8月26日に、人権宣言を採択。自由・平等の基本的人権をうたい、国民主権、言論の自由、私有財産の不可侵など、新しい市民社会の原理が提示されました。

 ところがルイ十六世は、無視。宮廷では豪華絢爛が続いています。市民は飢えているのに!

「一度市民の生活がどんなに困窮しているか、その眼でとくと見るがいいわ!」ということで、1789年10月、パリの女性たち数千人がヴェルサイユに行進。国王一家をパリに連行してしまいます。

 勢い、凄い!

 この事件がきっかけで、ルイ十六世は、8月4日宣言および人権宣言を無条件で承認しました。

 国王の承認を得られたところで、憲法制定議会が動き始めます。ラ=ファイエット、ミラボーらが中心となって、商人ギルドの廃止(経済活動の自由化)、教会財産の国有化、聖職者の公務員化などの改革を実施。ラ=ファイエットは一度登場していますね。アメリカ独立戦争の際に義勇軍を送った人です。この時代の偉い人は何でもするのです。

 一方のミラボーは国王や貴族に近しく、市民と上流階級とをつなぐパイプ役を担っていました。ところが、彼はこのころに病死してしまいます。

 パイプ役を失った国王一家は、今にも市民たちが自分たちを襲いに来るのではないかと急に不安に駆られだしました。そこで1891年6月、ルイ十六世は、妻のマリー=アントワネットの故郷である、オーストリアに逃亡を企てます。ところがこういうところが世間知らずというか、本当に危機感があったのかと疑いたいところですが、逃亡する身とは思えないほどの荷物、荷物。ごろごろと荷馬車を引いて、のろのろと国境を越えようとしていたところを捕まって、逃亡は未遂におわりました。これをヴァレンヌ逃亡事件といいます。これにより、困窮する国民を捨てて逃げようとした国王に対する国民の信頼は地に落ちました。

 同年8月、マリー=アントワネットの兄である、神聖ローマ皇帝レオポルト二世がプロイセン王と会見し、諸国にルイ十六世の救援を要請。ルイ十六世は国民から袋叩きに遭うことは避けられました。

 さらにその翌月には1791年憲法が制定され、これをもって憲法制定議会は解散。かわりに、立憲君主制、制限選挙を定めたこの憲法のもと、立法議会が招集されました。

 議会は右派のフイヤン派、左派のジロンド派から成り、商工業市民や中産階級で構成されるジロンド派内閣が組織されます。1792年4月、ジロンド派内閣は、フランスの立憲革命を阻止しようとしたオーストリアに宣戦。オーストリア・プロイセンと開戦しました。このときフランス国歌「ラ=マルセイエーズ」が成立します。

 義勇兵が活躍したこの戦争、戦局は思わしくありませんでした。というのは、どうもオーストリア・プロイセン側に、フランスの作戦が見切られているようなのです。どうも先回りされている…。おかしい。誰か内通者がいる…?

 なんと、内通者はルイ十六世でした。

 怒り狂った民衆はテュイルリー宮殿を襲撃してルイ十六世を逮捕し、王権を停止しました。これを八月十日事件といいます。

 王が逮捕されると、フランス勢はすこしずつ盛り返していきました。ついに9月20日、ヴァルミーの戦いにて、革命軍ははじめての本格的勝利を収めました。


次回に続く…

ところでフランス革命ってどこまでですかね?
バスティーユ襲撃からナポレオン三世まで、ざっと百年くらい動乱に次ぐ動乱で、一旦説明し始めるとそこまで転がりそうな気がしています。
ウィキ先生によると1795年までらしいので、とりあえずそこまでいこうかな…


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葵
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