第14回 (『ノラら』紗英から見た世界 ) ~そして、母の死~
『ノラら』
第一章:紗英から見た世界
第十四回
仕事中の私のスマホに母の病院から
電話が掛かって来たのは
それから一週間も経たない頃だった。
職場には、私と同じように
短期契約で派遣されてきた人が
他に八名いた。
同じ契約期間で雇われ同じ作業を
こなしているということもあり、
この夏私達は順調に打ち解け合い、
昼食や小休憩の際も
共に過ごすようになっていた。
職場は海沿いの
広大な埋立地を保有する
大手重工業内にあり、
私たちが事務作業場として
使っていたプレハブは、
その敷地内の最南端に位置するため、
正門からは歩いて十五分ほどかかる。
その日の十五時頃、
私達は外での暑い作業を終えて
室内での事務作業に入る前に、
海辺に腰を下ろして休憩していた。
お調子者気質の大沢さんが、
コンクリートの波打ち際で泳ぐ
黒い魚たちに向って
砂利を撒き散らして
ちょっかいを出している。
その砂の撒き方が
大沢さんのガタイが良いせいもあって、
相撲取りが塩を撒いてるように見えると
皆から揶揄われていた。
調子付いた大沢さんは四股を踏んだ後、
左手を前方に出して
仁義を切るような態勢のまま
摺り足で皆のほうへ近づいていく。
私も手を叩いて半笑いになりながら
「新手のロボットですか~」
と突っ込んだりしていた。
そのときユニフォームの胸ポケットで
スマホが盛大に振動した。
見知らぬ番号からだったが
半笑いのままそれに出た。
「矢崎紗英さまのお電話でしょうか」
という若い女性の小さな声が
耳元で聞こえる。
続けて彼女は
母の吐血が止まらないということと、
この状況から察するに
今日が云々である
というようなことを説明している。
彼女は「今日が云々である」などという
言い方をしなかったが、
当時なんという言葉でもって
母の死が間近に迫っているということを
私に伝えたのかを
すっかり忘れてしまったので
このような表現になってしまう。
この状況で私は電話に向って
「今はまだちょっと仕事中なので」
と今すぐに駆けつける必要は
無いですよねという意味を込めた言葉を
咄嗟に返したのだった。
今から思うと
体たらく極まりない悠長な返事だ。
電話の向こうのその人は
「ちょっとお声が遠いのですが……
とにかく、今すぐに
お越し願いたいんです。
ご親類の方にもご連絡をとって
いただきたいんです」
と、品のある調子で
母の臨終を予告している。
大沢さんを見上げて
ツッコミ笑いをする皆の声が
BGMと化していく。
私の隣に座って
呆れ顔で笑っていた結利加が
私の様子に気付いて
「どうしたん?」というふうに
両眉を僅かに動かし
首を傾(かし)げてみせる。
わかりましたと言って電話を切り、
結利加に事情を説明した。
「急いで行かなあかんな。
もし邪魔じゃなかったら
付いて行きたいねんけど…大丈夫?」
知り合って間もないこんな私に
「付いていったほうがいい?」ではなく、
「付いて行きたいねんけど」と
言ってくれたことに対して
私は気恥ずかしげに
「うん」と短く返事をした。
その直後、
胸の底のほうに沈殿していた
痛みの欠片がふいに浮上し、
すぐ傍の海面から聞こえてくる
さざ波の音とともに
静かに散らばっていくのを感じた。
もしかすると、
今起きていることは
惧(おそ)れる必要などないこと
なのかもしれないとさえ
思えたのだった。
結利加はここに来るまでは
保育士として保育園で
働いていたらしいが、
ワーキングホリデーを利用して
オーストラリアへ行くためにそこを辞め、
最後の資金稼ぎとして
この仕事を見つけたのだそうだ。
私と結利加は同い年だったこともあり、
仕事が始まるやいなや
早々に意気投合した。
父の死の直後、
私がどぎまぎしながら
職場へ出勤した際も、
結利加は私に臆することなく
父のことを聞いてくれた
唯一の人でもあった。
プレハブ小屋から正門までは
大沢さんが車で送ってくれた。
私は車中でバイト中の楓に
直接電話をしようとしたが思い改め、
楓のバイト先である
スーパーの電話番号を検索し、
店のほうに電話を入れた。
電話口に出てきた年配の女性に
事情を説明して楓を呼び出してもらう。
楓には
お母さんの容態が芳しくないから
念のため様子を見に行ってほしいと
簡単に伝えたが、
店長に言って今すぐ帰らせてもらえと
付け加えた途端、
さすがに動揺したのか
「え?そうなの?」と聞き返したあと、
すぐに「わかった」と
小さな声で返事をした。
車を降りて正門の外へ出ると、
徒歩十分程のところにある
最寄り駅まで歩き出した。
「紗英、タクシーで行かんでも大丈夫?
電車で市街地まで出て
その後バスに乗って
二十分ぐらいて言うてたけど、
それやと時間かかってまわへんかな」
よく通る濁りの無い声で
結利加が問いかけてくる。
財布に五千円入っているのかすらも
自信のなかった私は
「バイパスがいつもよく混んでるって
大沢さんとかが言ってたから
車だと不安で」
と尤もらしい理由を言った。
「そっか」と明るい調子で
答える結利加のほうを振り向いて
「ほんとありがとう」と言い添えると、
ふたりとも気持ち足早になりながら
駅まで歩いていった。
電車の中でもバスの車内でも、
私たちは特に会話を交わすことなく
それぞれに外の景色を見遣ったり
スマホを弄ったりしていた。
病院に着いた頃には
電話をもらってからもう
二時間近く経過していた。
エレベーターで五階に着くと、
看護師に母の居る所まで
案内してもらった。
そこは大部屋ではなく、
部屋の一角の壁だけが
ガラス張りになっていて、
広さは畳数に換算すると
優に二十畳以上はありそうな
だだっ広い部屋だった。
隅のほうには特殊な医療器具が
いくつか並べられている。
普段どういった用途で
使われている部屋なのか
見当がつかなかった。
ガラス張りの壁の横に置かれた
ベッドの上で
母は目を閉じて眠っていた。
楓は母の枕元のすぐ脇にある椅子に
ちょこんと座って
母の顔をじっと見詰めている。
私と結利加が
部屋に入って来たことに気付いて
楓が振り返った。
結利加は自ら楓に簡単な自己紹介をし、
ここに付いてきたことを
軽く詫びていた。
「お母さんさっきまで
ずっと血吐いてた。
間に合わないからバケツ持って来て
そこにずっと…ずっと吐いてたの。
それで、もう今は
呼吸もしてなくって…」
楓が頼りない声で
さっきまで息をしていた母の様子を
思い出しながら
ぽつりぽつりと説明する姿を見て、
喉元が急に苦しくなった。
「ごめん、ひとりにして。
お母さんの傍に居ててくれて
ありがとう」
私は喉元の痞(つか)えを
胸の奥へ押し遣りながら
優しい声で言った。
ふと母の枕元から
少し離れたところに目を転じると、
折り畳まれたパイプ椅子が壁際に
立てかけられているのが目に入った。
私はそれを広げて
結利加に座るように促すと
「ありがとう」と言って腰を下ろした。
「お母さん、きっとまだ
この部屋に居てはるから。
だから伝えたいこととかあったら、
言うてあげたら
お母さんちゃんと聞いてはるよ」
結利加が楓と私を交互に見詰めながら
よく通る邪気の無い声でそう言った。
その言葉には
この場に生まれかけている
悲しみの行き場を
どうにかして演出しようとするみたいな
わざとらしい雰囲気など微塵もなく、
実に頼もしく現実味のあることとして
私の胸に届いた。
だが、声に出して
母に何かを呟くというのは
気恥ずかしさもあり、
私は結利加の言葉を受けてから
何度もうんうんと頷きながらも
母の顔を見詰めたまま
何も言えずにいた。
楓はさっきから
行儀よく椅子に座って背筋を伸ばし、
腿の上で自分の両手を
しっかり握りしめている。
「お母さん、綺麗だね」
唐突に放った楓の平べったい声が、
だだっ広い部屋にしんと響いた。
私は楓の横から身を乗り出して
母の顔をまじまじと見詰め、
「ほんと。お母さん美人だよね」
と言った。
死ぬ直前の人の脳内には
快楽物質が分泌される
という情報を何処かで
目にしたことがあるが、
母の脳内にも
分泌されていたのかもしれない。
穏やかに
微笑んでいるように見える顔は
安らかとしか表現しようのない
無垢で幸福な表情をしていた。
彼女の美しい表情は、
その時の私達の唯一の救いだった。
私達姉妹は結局
母に語れる言葉を
何も見つけられぬまま、
引き続き
「元々お母さん美人だもんね」
などという他愛もないことを
二人で呟きながら笑った。
そうこうしているうちに
次々と母方の親族が
部屋に入って来た。
母の妹に当たる美香子おばさんが
親戚中に連絡してくれたのだろう。
彼女は頻繁に
母の見舞いに来てくれていた。
母はそのことを
よく嬉しそうに話していた。
美香子おばさんは私と楓に
「だいじょうぶ?
遅くなってごめんね」
と母の声にそっくりな
良く鼻腔に響く声で
そう言いながら抱きしめてくれた。
傍に居た結利加は軽く礼をし、
私が結利加との関係を
簡単に説明する。
他の親戚達も
私や楓に向って何かと
話し掛けてくれたと思うのだが
あまりよく覚えていない。
文字通り安らかに眠っている母にも
そぞろそぞろに
話し掛けていたように思う。
私はその様子を
だだっ広い部屋の天井の角に
ぷかぷかと躰を浮かせて眺めていた。
親戚たちは一頻り母の顔を見ると
ベッドから離れていき、
今度はお互いに抱き合いながら
泣き合っている。
一度も見舞いに来たことのない
親戚もいた。
その人は泣きながら
他の親戚の背中を摩って慰めていた。
親戚たちが固まって
お互いの悲しみを分かち合っている横で、
楓と結利加だけが
ずっと枕元に座って
母の顔を静かに見詰めていた。
親戚の固まりと楓達との間に、
いつの間にか
看護師が呼んできた医師が立っていた。
医師を母の元まで連れてきた看護師が
「親戚の方、
こんなにもいらっしゃったのねえ。
入院中にはあんまり誰も
来てはらへんかったから
びっくりしちゃったわ」
と楓に話しかけている。
その横で
母の瞳孔の確認などを済ませた医師が
時計を確認しながら
「十七時十六分、お亡くなりです」
と誰に告げるでもなく言い終える。
用を済ませた医師が
親戚の固まりに向って
大雑把に会釈しながら
病室から捌(は)けていく。
残された看護師は、
浮遊中の私を手招きし、
呼び寄せるやいなや
笑顔で話し掛けてきた。
「お母さんにお化粧してあげる?
チークと口紅だけでも。ねえ」
そう言って
看護師から渡された化粧品を手に、
楓と私はぎこちない手つきで
母に化粧を施した。
血色よく色づいた頬と唇のせいで、
母はますます美しく安らかに
ただ眠っているだけのように見えた。
「お母さんきれいわねぇ」
看護師が嬉しそうに言う。
その後方に座っていた結利加が
すっと立ち上がり、
「紗英、あたしそろそろ行くね。
だいじょうぶ?」
と、私を気遣う言葉を掛けてくれた。
私は結利加に礼を言うと
ドア付近まで見送った。
結利加が居なくなったことを
楓と私以外は気付いていないようだった。
一面ガラス張りの壁からは、
オレンジ色の強烈な西日が射し込み、
隙間だらけの部屋を
徐々に埋め尽くしていった。
ガラス張りに一番近い場所に居る
私と楓と母の肌が、
同じ夕日の光に染められている。
足元から黒く伸びた私の影は、
部屋の奥に集まって
何やら話し合っている親戚達の
足元にまで伸びていて、
数分後には
獲物を見つけた死神のように
彼らの全身を覆い尽くしていた。
【YouTubeで見る】第14回(『ノラら』紗英から見た世界)