人間失格 #5

「いまは自分には、幸福も不幸もありません。」

そんなことがありえるのだろうか。
そう思わされたのはあの有名な文豪作品『人間失格』を読んだ後だった。


こんばんは、禾田うずらです。
前回の記事から期間が空きましたが、今回は『人間失格』を読んで得たインプレッション(印象や感想、影響など)を書いていきます。

既に読んだことのある方や、作品についてまとめている方が多いと思うので、この記事では私のインプレッションのみを取り扱いたいと思います。




「恥の多い生涯」

この作品には有名な書き出しが2文存在します。

私は、その男の写真を三葉、見たことがある。

はしがき

恥の多い生涯を送って来ました。

第一の手記

このうち、第一の手記の書き出しである「恥の多い生涯」とは、いったいどのようなものを指すのだろう。

子供らしさを演じたことなのか。
好意を寄せていた女性の後を追おうとしたことなのか。
酒やタバコ、薬に溺れてしまったことなのか。

きっと、どれも当てはまる。
そのくらい、自分の生き方に後悔しているのではないかと読み取った。

葉蔵は純粋さを欠いた自分の生き方を「恥」と表現している

その時、その年齢でしかできないことは多いのではないだろうか。
自分のことだけを考えて純粋無垢にいられるのは子どものうちだけであり、お酒の失敗が許されるのは学生のうちだけだろう。

社会に出るようになってから自己中心的な考えで生きている大人は大人と呼びたくはないし、いい歳にもなってお酒で失敗している姿も大人だとは思えない。

こういった、「らしさ」を演じていた過去が、葉蔵にはある。


そもそも、生涯とは生まれてから死ぬまでの一生を指す言葉であり、27歳の葉蔵が扱うには随分と大層な言葉に感じる。

それは、きっと葉蔵自身が「人間失格だ」と述べていることに準ずるのだろう。


「もはや、自分は、人間で無くなりました。」

全身に血を巡らせ、両肺で酸素を取り込み、ものを考えられる人間が、人間で無くなった。

そう述べる前に、「狂人」や「廃人」といった言葉を用いています。
狂った人間を「狂人」と呼び、廃れた人間を「廃人」と呼ぶ。
そう、どちらも立派な人間である。

でも、葉蔵は人間で無くなってしまった。
それは彼が、真っ当な人間というものを演じてきた過去が影響しているのだと感じた。

こういう人間であるべき

葉蔵の手記から、人間というもの自体に囚われ続けていることが読み取れた。
だから、彼はパブリックイメージ通りに振舞っていたのだろう。
彼の中で、狂い、廃れた人間は、もう「教科書に書いてある人間像」ではないのだろう。


そんなことない

私は、葉蔵にそう言いたい。

彼は、随分人間らしく生きていると思う。
自分がどう思われ、どう見られているのかに囚われ、客観視した自分を演じて生きる姿を見て、誰が人間らしくないと言うのだろうか。

この世の中に、自我を首尾一貫できる人間はいくらいるのだろうか、というよりもいるのだろうか。
私は、そういった生き方は「人間」というよりも「AI」に近いように感じてしまう。


賢い人ほど頭が固い。

そう思うようになったのは、私が中学生の頃だったと思う。
賢い人は計画を立てるのが上手く、その計画を遂行するのも上手い。
しかし、行き当たりばったりが苦手と言い換えることもできるだろう。

柔軟性を持って、その場しのぎでも都度舵を切るのも間違いではない。
地図や計画書が無くたって、どうにかなる。それは人生と一緒である。

もちろん、賢い人の中にも頭の柔らかい人がいるのを知っているし、賢くもなければ頭の固い人もいることも知っている。

これは私の20年で感じた、一意見として受け取っていただけないだろうか。


葉蔵は、賢い。
だから、幼いながらにして自分自身を演じられたのだと思う。

それを、恥だとは思わないし、人間らしくないとも思わない。
そういう人間なんだ、としか思わない。


まとめ・あとがき

X(旧Twitter)にも書きましたが、私がnoteを書くようになったのは読書がきっかけでした。

有限とはいえ、時間を持て余しがちな大学生活。
無意味に時間を浪費するのはもったいない、と思い本を手にするようになりました。
スマホを1時間見るよりも、本を1時間読んだ方が、自分の価値を高められると思ったからです。

本来、noteを始めたのは本を読む習慣を付けたかったからであって、webライターに興味が出始めた頃、ちょうどいいと思って始めました。 沢山の作品に触れたい、という20歳になった私の目標。

https://x.com/nogita_u/status/1830840730635641119

私の母は活字が苦手ということもあり、読み聞かせというものとは無縁でした。
なので、幼稚園や小学校で借りてきた本を黙々と読み、機嫌のいい日は母にそれを読み聞かせる、なんてことをしていました。

「お母さん、読んだことないよ」
「うずらが読んで教えてよ」

テレビなんかで有名な文豪作品が取り扱われたとき、読んだことある?と問うと必ずといっていいほど、こう返ってきていました。


有名な文豪作品は、教科書に載っているものしか知らないな、と思い、本屋さんでいくつか買ってきたうちの1つが『人間失格』でした。

私自身と重なるところや、理解しがたいところがあるのはどの作品でも同じです。

ですが、現代文学作品ばかり触れてきた私にとって、『人間失格』はいろいろな意味でヘビー級でした。

昔ながらの表記や言葉遣いにもたつき、時代背景を想像しながら読むというのは体力のいることだと、痛感しました。


本は、私の体験できない人生を体験させてくれる、ある種の仮想空間だと思っています。

『人間失格』を読んで、想像通りの題名回収でありながらも、しっかりと感動を覚えました。

それはきっと、私自身の人生に何か、心当たりがあったからかもしれません。


久しぶりの記事は、ビブリオノートとなりました。

読みたい本はたくさんありますので、読書を介して考えたコラムを書きつつ、1冊読み終えるごとにビブリオノートも書いていこうと思っております。

お勧めの本がありましたら、是非。
また、次回の記事でお会いいたしましょう。
お時間があれば、過去の記事も読んでいただけると幸いです。

禾田。


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