誰かを想う豊かさ
信心深いわけではないけれど、手を合わせて祈る時間は豊かだなと思う。
先日、縁あってお寺にお邪魔した。正式なお焼香の仕方を教わって、手を合わせる。仏壇の前で手を合わせたら、自然とおじいちゃんの顔が思い浮かんだ。「そっちで元気?」「庭の梅が綺麗に咲いているよ」なんて話しかけながら、最後には「おばあちゃんのことよろしくね」って終えた。不思議と、心があたたかくなったことを感じた。こういう風に誰かを想うことって、私の日常にはなかなかないなぁ、とも思いながら。
手を合わせて祈っているときは、自分の邪心みたいなものが介入する余地がなくて、100%誰かに意識が向いている。故人を想うときだけではない。「後輩が頑張っていたあの仕事がうまくいきますように」「彼が試験に通りますように」「弟のこどもが無事産まれますように」なんていうときもそうだ。自分で何か相手の現実を変えられるわけないから、ただただ自分のすべてを相手に向けて祈るだけ。
そうやって、見返りも求めず、ただただ「元気でいてくれればいいなぁ」とか「幸せでいてね」って願う時間があることは、心豊かで、幸せなことだと思う。相手の幸せを願うことで、自分も幸せな気持ちになれる。そういう風に、人間はできている。誰でも。不思議だなぁ。
祈りといえば、思い出すエピソードがある。
高校の吹奏楽部で演奏した曲の中に、シェイクスピアの悲劇をもとにしたものがあった。その一幕の夫婦が愛し合うシーンは、その後訪れる悲劇的な別れをほんの少し暗示しつつも、情熱的だが優しく、美しくて甘く深い情感に溢れていた。だけど、まだまだ人生経験が乏しかった高校生の私たちには、思いっきり誰かを愛することも、痛みを伴う別れも、ちょっと遠い世界の話だった。
ある日の練習中、先生がおもむろに先生自身の話をし始めた。それは先生の死別してしまった奥様のお話で、穏やかに話す先生の表情からは、今でも大好きなんだということがひしひしと伝わってきて。誰かを愛すること、別れがきてしまう無念さ、それでもなお愛おしく、相手を想い続ける気持ちが、はじめて自分事として胸に迫ってきた。
先生はその話から私たちに何かを押し付けてきたわけではなかった。けれど、その後演奏した曲は、ガラッと音が変わった。全員が、先生と奥様に届くようにと、言葉にならないあたたかな想いが音楽で伝わるようにと、祈りを込めたんだと思う。先生は、ほんの少し涙ぐんでいた。誰かを想うことの力を、体感した。
人間関係は難しくて、ついつい自分がどう思われるかとか、どうすれば損しないかとか考えてしまう。だけど、たまにでいいから、相手の幸せをただ祈る、無心で相手を想う、心を相手に向ける、そんな豊かな時間を持ちたいと思う。
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