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知的おかず:『老荘思想』にお漏らし(知的にね)
夜の知的おかず。それは、頭と心の空腹を満たす夜更けの贅沢なスナック。今回のテーマは「老荘思想」、その中でも道家の哲学―無為自然の美学と超然とした存在論を題材に、わたしの脳内で知的お漏らしが炸裂した結果、文字の洪水がこうして形成されたわけです。
ええ、あなたが想像している以上に湿っぽい、そして滑稽で、でもどこか救いがたい深さを持った哲学的おかずです。タイトルからして「老荘思想にお漏らし」とか、わたしも正気ではないと思っていますが、夜のテンションというものは、理性を軽やかに超越させるものですね☆
さて、老荘思想。老子と荘子、二人の哲人が紡ぎ出したこの思想は、言葉にすればするほど、言葉の限界を嘲笑うようなものです。中心的な概念は「無為自然」。行動しないことを推奨するわけではなく、むしろ「自然の流れに抗わず、むやみに自分を主張しない」という生き方を説いています。これを現代のビジネスシーンに置き換えると、ブラック企業の社員に向かって「残業せず、流れに身を任せましょう」と言うようなものですが、そうは問屋が卸さないのが現実。いや、だからこそ、老荘思想の響きは、現代人の心に一種の禁忌的な快感をもたらすのです。「ああ、抗わなくていいんだ」と。
荘子の「胡蝶の夢」の話をご存じですか?荘子が夢の中で蝶になり、目が覚めたときに「自分が蝶だったのか、それとも今の自分が蝶の夢なのか」と悩む、あの寓話です。あれ、めちゃくちゃ哲学的に見えますけど、普通に解釈すると、「いや、そもそもお前どれだけ爆睡してんだよ」というツッコミを入れたくなるわけです。
そして、ここで重要なのは夢と現実の境界が揺らぐ感覚。これ、わたしが深夜にネットショッピングをして、翌朝「この猫耳付きキーボード、なんで買っちゃったんだろ」と悶絶する感覚とどこか似ていると思いませんか?(こういう経験ありませんか?) 境界が曖昧になると、人は妙に自由になるものです。しかもその自由が、後からじわじわと重くのしかかる。そう、老荘思想の根幹にある自由は、軽やかでありながら、どこか湿った重みを持っています。だからこそクセになる。まるで濡れた毛布にくるまって、その湿気を楽しむような感覚。
しかし、老荘思想を「無為」としてそのまま受け止めると、現代社会ではただの「無職」にしか見えないリスクがあります。いや、無職を否定するわけではありません。むしろ、無職の境地にこそ老荘思想が宿るのではないかという気さえします。荘子の「無用の用」という概念がありますね。「役立たず」と見なされるものにこそ真の価値がある、という逆説的な思想です。これ、たとえば会社の会議で「この資料、超無駄じゃん」と思った瞬間に、実はその無駄こそが、会議全体のリズムを整える潤滑油になっていたりする現象に似ています。無駄なものに価値を見いだすセンス、それこそが老荘思想の真骨頂。無駄な資料を作ることに生きがいを見出す中間管理職、それは現代の荘子かもしれません。
ここでふと、わたしのアラサー女子脳(今日noteで「アラフィフ女子」を発見したのであと20年「女子」使用可です)がつぶやきます。「無為自然って、恋愛にも応用できるのでは?」と。たとえば、相手に好かれようとするあまり、自分を飾り立てる行為。それって、老荘思想的には完全にアウトなんですよね。むしろ自然体で、相手の流れに乗ることこそが真の恋愛術だと説くわけです。いや、だから、わたしも一度だけ実践してみましたよ。好きな人の前で飾らず、素の自分をさらけ出した結果、「君って、意外と変わってるね」と言われて終わりましたけど。うん、荘子も言っています。「変わっていることこそが自然だ」と。そう、わたしは自然体の変態です。ありがとうございます。
最後に、わたしが老荘思想から学んだことを一言でまとめるなら、こうです。「漏らしてもいい」。いや、むしろ漏らしたほうが、何か新しいものが見えてくる。情報過多な日常において、知的にも、感情的にも、わたしたちは常に何かを溜め込んで生きています。でも、その溜め込みを解放する瞬間にこそ、真理が顔を出すのです。老荘思想の「無為自然」とは、そんな「知的お漏らし」の美学なのかもしれませんね。
このエッセイが読者のみなさまにとって、知的おかずになったかどうかは分かりません。夜遅くにこってりした哲学を味わうのは胃もたれのリスクを伴いますが、その重みこそが人生のスパイス。はい、どうぞ、この湿った文字列をタオル代わりに、濡れた心を拭ってください。