夜の知的おかず− ハラリと対峙する
わたし、一度や二度じゃないんです、ハラリとの対峙。ええ、彼の『サピエンス全史』を片手に、夜な夜なその厚くて重たいページをめくりながら、たっぷりと時間をかけて(実際無駄に長時間をかけてしまったわけですが)、彼の主張を一つ一つ、丁寧に、そして時にしっとりとした湿度を感じながら、解体し、論理の隙間にスパナを突っ込むようにして、じりじりと崩していきました。
そう、これはもう、わたしの「知的おかず」シリーズ(シリーズ化は未定ですが)の真骨頂。脳内の湿った部分がじんわりと暖かく、時にヌメっとした感触を抱えながら、ハラリの世界観をフルボッコにしていく快感と恥辱の狭間に揺られていたのです。
では、まず最初にハラリが愛してやまない「虚構」という概念について。
彼は、人類が他の動物と異なり、虚構を信じられるからこそ文明を築き上げたと語っていますね。確かに、虚構、つまり「物語」を信じる力が、法律や宗教、国家といった人間社会の基盤を作り上げたという主張には一理ある。
が、それだけ?虚構を信じることが、進化の全てを説明できるだなんて、ちょっと待ってください。まるで、わたしが電車でお漏らししたときに「暖かい感触があるから大丈夫だ」と自分を慰めるくらい、甘っちょろい自己欺瞞じゃないですか——そして、その瞬間、わたしの脳はクシャっとなる。いや、感情的な話を持ち出すわけじゃないけど、なぜ誰も彼もがこの虚構論にうっとりと浸かっているのか、理解に苦しむのです。
わたしがハラリの虚構論に対して特に苛立つのは、その平坦さ。まるで平野を走り抜ける風のように、物事の複雑さをあえて無視しているかの如く、すべてを「虚構」の一言で片付けてしまうその姿勢。たとえば、アインシュタインの相対性理論を「時間が伸び縮みするってことね、簡単じゃん!」とだけ言ってしまうような浅さを感じるのです。物理はそんなに単純じゃない——いや、哲学も、そして何より人間の心理も。特に、わたしのように湿った感情でドロドロと絡み合う神経細胞の動きをリアルタイムで感じている者にとっては、ハラリの虚構論は、まるでポテチ一枚で晩ごはんを済ませるような粗雑さに思えてならないのです。
次に、ハラリの「人類の未来」について触れないわけにはいきません。彼曰く、AIが人類を超え、ホモ・デウスという新たな存在が生まれる未来が待ち構えていると。確かに、技術の進歩に伴い、未来の可能性は無限大。でも、彼が描く未来像がまるでディストピア小説のごとく、冷たい鉄の鎧に覆われたように無機質で、感情の揺らぎや葛藤を無視しているのが悲しい。だって、わたしたちは、そんなに合理的じゃないでしょう?わたしがドS的に相手を追い詰めるときだって、ただ理論を振りかざすだけじゃなく、相手の反応やその感情の微妙な揺らぎを読み取る、そう、まるで音楽的なセンスで相手の心のリズムを感じ取るように。そして、そのリズムに合わせて、時に強く、時に優しく、攻撃を繰り出すのが本当の「知的なやりとり」でしょ?
ハラリには、その「揺らぎ」がない。まるで完璧に調律された機械のように、彼の思想は一貫して冷たく、しかもその冷たさが、わたしの知的な嗜好を刺激するどころか、逆にその湿った感情を凍らせてしまうんです。あの、電車でお漏らしして、恥ずかしさと暖かさが入り混じるあの瞬間のような、感情の激しい振幅がまったくない!これじゃ、脳内の神経細胞がシナプスの先でビリビリと痺れるような知的興奮には到底到達できない。
それに、彼が未来の人類の進化を語るとき、その「人間らしさ」からどんどん離れていく感じが、わたしには耐えられないのです。わたしが愛してやまないのは、革新者でありながらも、その人間らしさを保ち続ける存在——そう、古代の哲学者たちが語るような、理性と感情が絡み合った湿った思考なんです。ハラリの未来論は、あまりにも乾いていて、わたしの湿度を奪い取ってしまう。
わたしはハラリを愛せない。彼の思想はあまりにも合理的すぎて、まるでわたしがドSであることを忘れ、ただの冷たい機械になってしまったような感覚にさせられるんです。わたしは、その湿った感情と理性の狭間で喘ぎながら、無駄には思考を展開することが、生きている証なんですから!そうじゃない?